サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


国民教育普及への熱意

リヤードにある今日のマジュリス・アッシュ‐ラーの建物
リヤードにある今日のマジュリス・アッシュ‐ラーの建物(P.126-1)
現在の学校授業風景
現在の学校授業風景(P.127-1)
今日のサウディアラビアにおける教育の普及はアブドルアジーズ王に負うところが大きい。王が遺した知的活動や教育に関する業績は枚挙に暇がないほどである。アブドルアジーズ王はその広範な人的絆やウラマーとの関係を教育の普及に活かした。王にして宗教主導者のひとりであったアブドルアジーズは、ナジド地方のほとんどの町に支配を確立し、彼の人民からなる知識階級の活動範囲を拡大していった。王は彼らの中から教育、布教、伝道、法制など、それぞれの法律的問題に係わる諮問委員を選び出し、毎週金曜日の午前中を会合日としたほか、軍事遠征時も彼らと行動を共にした。実際、王自身が彼らと提携せずに行動することはなかった。彼の燃えるような情熱、澄み切った信仰心、広い視野と威厳に満ちて人心を魅了する人柄、その誠実さと高い理想、目標を見る目の確かさ、それらの目標実現へのアプローチのすべてを理知的に具現する才覚……これらによって王はその壮大にして高邁なる理想を達成する手腕を発揮し、祖先から受け継いだ教育プログラムを最大限に活用する裁量を具現した。そのプログラムは1924年、布教活動を通じて始められた。

この年、王はマッカのウラマーと会議を開き、彼らに宗教教育と読み書きの普及に努力することを要請した。この会議はまた、王自身がかねてより意図していたマジュリス・アッシュ―ラー(諮問評議会)を設立する旨を彼らに下達するためでもあった。この評議会は、ウラマーや国内有力者の中から選ばれ、王と国民の間の仲介役を果たす委員から構成され、王にとっては目となり、国民にとっては苦情を聞いてくれる耳となり、訴状を調査して王に答申をするのが任務であった。この評議会による答申の結果、1926年、「国民教育局」と称する、教育全般を担当する部局を設立する勅令が発布され、マッカにアジージーヤ小学校等4小学校が開校された。

王が教育担当部局を設置したことは、サウディアラビア王国における系統的教育の確立の布石であった。やがてこの部局はその権限において、国内のすべての学校やシャリーア(イスラーム法)の大学を管轄するようになる。国民教育局長は教育行政の最高責任者となり、法制に反しない限りいかなる通達をも発布し得る資格を有した。1926年8月30日、「国民教育要項」が公布され、(1)国民教育局は学問・知識・技能の普及ならびに学校・図書館の開設を管轄し、また、王国全体における真正イスラームの根源に関し正確かつ強い関心を払う学術研究機関に対する支援をおこなうこと、(2)初等教育は王国全域にて無料で行われるものとする、などが明文化された。

アブドルアジーズはヒジャーズ併合後の1927年に、国民教育局に所属する監督立法委員会として「教育委員会」を設立することを発表した。これはヒジャーズにおける教育を制度化するもので、(1)ヒジャーズにおける初等教育はいずれも無料の義務教育とする、(2)ヒジャーズにおける教育は、予備、初等、中等、高等の4段階とする、などが定められた。教育委員会は、国民教育局長を委員長とし、委員は政府高官4名、学識者4名の8名から成り、すべて勅令により任命された。同委員会の権限は、(1)教育局の予算を決定すること、(2)委員長が指名する教員を承認すること、(3)学校を監督すること、(4)クルアーン校(小学学齢前の児童を教える学校)の状況を調査しその報告書を提出すること、(5)政府管轄校使用の教科書を選定すること、などであった。

1932年9月23日、サウディアラビア王国の誕生によって、ヒジャーズとナジドとその属領との合併が布告された時、国民教育局の任務は単にヒジャーズにおける教育の監督にとどまらず、王国全域の教育に関わる事項全般をも監督することとなった。管轄業務の拡大により、国民教育局の規制も、(1)国民教育局長は国民教育局における最高責任者として、いかなる指示も出すことができる、(2)教育委員会は、教育局長に指名される教育局職員2名と、王の代理権者により指名される教育問題経験者6名の合計8名の評議員から成る、(3)教育委員会はカリキュラムの決定、学校の新設、留学生の派遣、すべての公立学校における卒業評定の監督、公立学校の監督等の権限を有する、などと改定された。

この体制は、1944年に教育省が設立されるまで存続した。

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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