サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


領海法制定に優れた国際法の見識―その2

アラビア湾の法的環境が注目されるようになったのは1940年代の終り頃、いかなる沖合地域をアラムコの利権区域内と考えるかという疑問が起きたときであった。アラムコの利権協定では沖合島嶼および沿岸水域を利権区域に含めているが、トルーマン宣言の解釈を適用した場合、そのままで同宣言のいう沿岸水域以遠の海域にまで拡大できるのか、という問題であった。

アブドルアジーズ王がサウディアラビアのアラビア湾における権益を主張するに当たって、彼は当然、利権区域が重複することや、英国が被保護国の利益を主張するであろうことを予測していた。石油会社間の法律紛争に発展した場合は、さらに深刻な問題となることも認識していた。第二次大戦中、サウディアラビアは英国および米国の援助を得ていたが、こと主権に関わる海洋法の問題に関しては英国や米国の政策と対立しても王国の利益が何ものにも優先した。王は敢然と沖合18島の領有と沿岸水域以遠の資源についての利益を宣言した。

大戦直後、アラビア湾では島嶼の領有権と境界線をめぐってサウディアラビアと他の国々の間で多くの紛争が起こっており、休戦海岸諸国とサウディアラビア、マスカット・オマーンとサウディアラビアの紛争では宗主国たる英国が交渉権ありと主張してサウディアラビアとの交渉に携わっていた。果たせるかな、英国はアブドルアジーズが領有を主張する18島のうち5島はクウェイトのものであると異議を唱えた。アブドルアジーズ王は英国に交渉を申し入れたが、英国は言を左右にして交渉を先送りにした。イランもうち1島の領有権を主張し、米国は領海の測定方法に異議を唱えた。

もともと、この種の紛争は根が深く長年続いて来たものであった。中には1913年以来、英国とオスマントルコの間で解決を見ず、1934年以後は新主権国サウディアラビア王国と英国との間の交渉に引き継がれたが、やはり未解決のままの紛争も含まれていた。英国は交渉に応じるどころか、サウディアラビアが領有を示すため島々に建てた標識を破壊する措置に出たほか、軍事力を行使してサウディアラビアに圧力をかけた。

結局、アブドルアジーズ王が1949年の領海法公布の際に規定した紛争解決の条項に従って交渉が進められ、彼の死後1958年にバハレインとの沖合境界線協定が締結され、以後、1965年にカタルと、1968年にイランと沖合境界線協定を締結した。これらの協定の成立は、サウディアラビアが相互の協力と敬意を念頭に、公平の原則と国際法遵守の姿勢で臨んだことの成果であった。そしてこの姿勢の素地はアブドルアジーズ王の、国益の増進を図るとともに近隣諸国の権利と利益も尊重する姿勢に始まったということができる。協定はすべて公平でなければならないというのが彼の信念であった。その信念と独立自尊の精神のゆえに彼は尊敬された支配者であった。アブドルアジーズ王が領海法の制定で謳った思想は、のちの1958年の国連海洋法会議で採択された海洋法4条約のひとつ、領海条約に反映された。また、王の唱えた公平の原則も、国際司法裁判所の扱った大陸棚訴訟などで先決例として採用されている。

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2006年 アラブ イスラーム学院