サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


イェメン対策で見せた現実主義

アブドルアジーズが機敏さ、寛大さ、勘の良さ、現実主義など、政治家としての資質を見せた代表的なケースは1934年のイェメンとの戦後処理であった。1934年5月21日、ターイフで締結されたサウディ=イェメン条約で、アブドルアジーズは占領した沿岸地帯のほとんどをイマーム・ヤヒヤーに返し、アブドルアジーズはナジュラーン、アシール高地、ジーザーン港を領有することが確認された。これまでのアブドルアジーズならば自らが占領した土地は自らが領有した。彼がいま王となったサウディアラビア王国は30年もの間そのようにして築き上げられたものだ。それが今回は占領した土地を未練もなく元の持ち主に返したのだ。人々はアブドルアジーズに、折角占領した土地を返すことはないでしょうと言った。彼は答えた。「イェメンをサウディに併合しても、治める人間をどこから連れて来るのか。イェメンはイェメンの統治者でなければ治められない。イェメンは私には益をもたらさない」
イェメン人の特異性、歴史、地理を熟知していたアブドルアジーズ王は、イェメンを自分の領内に包含したが最後、際限のないトラブルと損失の泥沼にはまりこむことは明明白白であると考えた。勝ち戦は必ずしも領土を併合したり人民を支配することに直結しないのだ。英国ですらアデンを保護領にしただけで、そこから奥地に入って来ようとしないではないか。やっと生まれたばかりの若い国サウディアラビアをイェメンの流砂の中で危険に晒すような軽挙妄動は慎まねばならぬ。それに、もしイェメンを領有した場合はこれまでサウディアラビアが行なってきた征服や占領や併合と違って、外国の侵入・支配と同様に見做されることは必至であろう…。領土拡張政策に終止符を打った彼は国内の整備・充実に取り組んだ。

1935年3月15日の早朝、マッカ巡礼に来ていたアブドルアジーズ王は皇太子サウードとともに何千という巡礼者にまじって、カアバの周囲を歩くタワーフと呼ばれる巡礼行事の一つをおこなっていた。巡礼者はすべてイハラームと称するわずか2枚の白布以外の衣服や装身具を着用してはならず、毛髪もさっぱりと刈り込まなければならない。当然、王も皇太子も巡礼衣姿で無防備であった。突然、巡礼者の列の中から4人の刺客が短刀を振りかざして王に襲いかかった。その瞬間、サウード皇太子が父王の前に立ちはだかり、父を凶刃から救ったが、自らは肩に重傷を負った。下手人たちは王の護衛兵によって取り押さえられ、3人はその場で射殺された。4人ともイェメン兵であった。この暗殺未遂事件に対する報復は行われず、サウディアラビア=イェメン関係にも変化は生じなかった。アブドルアジーズがこれを外交問題にしなかったからであった。

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














日本語トップ | リンクについて | サイトマップ | ヘルプ



2006年 アラブ イスラーム学院