サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


アブドルアジーズ王の歴史観と戦略―その2

アブドルアジーズの計算と分析は正しかった。アブドルアジーズは1902年初頭のリヤード奪回の時と同様、夜陰に乗じてホフーフのトルコ軍要塞を奇襲した。彼の兵力300名に対して1,200名のトルコ守備軍はほとんど無抵抗で降伏し、全員を無事に撤退させてくれるようアブドルアジーズに懇願したのち、ハサーから永遠に立ち去った。アブドルアジーズは遂にアラビア湾への出口を確保した。豊かな水産資源、豊穣な農地、多額の関税収入をもたらす最良の領土を手に入れたのであった。この時アブドルアジーズは自分が地球上最大規模の油田の集中する地域を領有したことを知る由もなかった。

ドイツに湾岸進出の口実を与えないようオスマントルコを刺激することを避け、1902年にアブドルアジーズが支援を求めた時も言質を与えず、その後も彼の存在を意図的に無視してきた英国はやっとこの時、彼を軽視すべからざる存在として本気で考えるようになった。英国はオスマントルコをドイツ陣営から連合陣営に引き寄せる苦心をしてきたが、アブドルアジーズの急襲に敢え無く敗退して、図らずも衰残の極みを露呈したトルコは、もはや英国が重きをおく国ではなくなったのである。以後、英国の政治計算式の中にはアブドルアジーズとその国がパラメーターとして常に考慮されることとなる。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると英国はドイツに宣戦布告し、哀れドイツ側について大戦に引きずり込まれたオスマントルコも英国の敵となった。英国政府はアブドルアジーズを英国の同盟者として確保することを決め、ウイリアム・シェイクスピアをアブドルアジーズのもとに送った。アブドルアジーズは軍を率いてリヤードの北320キロ、アルターウィーヤの近くでラシード軍と交戦中であったが、訪ねて来たシェイクスピアを快く迎えた。

シェイクスピアは英国政府の方針と自分の来訪目的を話した。これまで言を左右にして来た英国が、この際アブドルアジーズと同盟関係を正式に結んで彼にもトルコに敵対させようというのであった。アブドルアジーズは不愉快であった。つい半年前、アブドルアジーズがホフーフのトルコ軍を攻撃するに先立って英国の援助を要請した時には断ったではないか。その舌の根の乾かぬうちに、英国に与してトルコと敵対することを約束せよとは手前勝手が過ぎる。

しかし、すでに10年以上も英国との条約締結を待ち望んで来たアブドルアジーズは、シェイクスピアと条約の草案作成にかかった。その内容は、英国はアブドルアジーズの国の独立を承認・保証することなどであった。アブドルアジーズにとって当面の敵国はラシード侯国であった。

この草案は本国に送られた。ところが本国からの回答を待っている間にシェイクスピアはラシード軍の凶弾に倒れた。アブドルアジーズは誠実な英国人アラビストの死を心から悼んだ。数か月後、草案を承認する旨の通知が届いた。1915年末、サー・パーシー・コックスとアブドルアジーズの間で条約が調印され、アブドルアジーズは毎月5,000ドルの支援金を受け取ることになった。

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2006年 アラブ イスラーム学院