サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


アブドルアジーズ王の歴史観と戦略―その1

アラブの伝説によると、ハサー地方はイブラーヒーム(アブラハム)がカルデア王国のウルに移住する以前に住んでいた最初の故郷であるという。イブラーヒームは一神教の開祖とされ、ユダヤ教の開祖であると同時にイスラームの開祖でもある。イブラーヒームの長子イスマーイール(イシュマイル)は北アラブ族の祖、次子イスハーク(イサク)はユダヤ族の祖とされる。預言者ムハンマドはこのイスマーイールの末裔であるとされるので、ムハンマドの系譜はイブラーヒームにまで遡ることになる。クルアーンはイブラーヒーム、イスマーイールの二人を預言者に数えており、この二人が人類の祖アーダム(アダム)が建てたカアバ神殿を再建したと記している。従ってムスリムは、カアバ神殿の近くにあるイブラーヒームの立所やイスマーイールの場所は、この故事を証拠立てる聖跡であると考えている。

上述の如くイスラームが「イブラーヒームの宗教」と呼ばれる一神教に始まることやイブラーヒームの故郷がハサー地方であることに加えて、1793年から1871年までハサーはサウード家が領有していた歴史があった。アラビア湾に面したオカイル港からは関税収入を得ることができ、この地方産出のハラス種ナツメヤシは小粒ながら透き通った色合いと高い糖度で最高級品のほまれが高く高価格で輸出された。1871年にハサーをトルコに奪われたことはサウード家の財政に大きな打撃を与えていた。「祖先が権利としたもの」ハサーは「我々の権利」として奪い返すべきものであった。

アブドルアジーズはハサー攻略を準備した。1871年以来、オスマントルコはハサーを自らの領土としてホフーフに軍を駐留させていた。英国も今世紀初頭以来、クウェイト、バハレイン、休戦海岸諸国など、アラビア湾岸に拠点を築きつつあった。ハサーを占領した場合、オスマントルコと英国はどのように反応するであろうか。もはや瀕死の病人となったトルコはアブドルアジーズに反撃する余力はなく、彼のハサー占領を既成事実として認めざるを得ないであろう。片や英国は、アブドルアジーズの湾岸進出に不快感を抱いたとしても、トルコ軍が放逐されたことを歓迎するはずだ。とりわけ、トルコに与してアラビア湾進出を企てるドイツの脅威に去勢効果を与えることになり、英国には疑いもなく安心材料となる。

1910年にサー・パーシー・コックスの後任として駐クウェイト英国政務官となったウイリアム・シェイクスピアは1913年5月、ナジド北部のマジュマアでアブドルアジーズと会談した。王はハサー攻略とトルコ勢力撃退の決意を告げ、トルコが海上から反撃できないよう支援してほしいと要請した。また、そのため英国と正式な外交関係を結びたい旨を申し入れた。シェイクスピアは驚き、トルコは老いたりといえども世界の大国であり軽軽に過少評価してはならないこと、王は立ちどころに撃退され、これまでの蓄積のすべてを失うことになること、それに英国政府は王のトルコ軍攻撃に何らの援助もしないことを告げた。アブドルアジーズは失望の色を見せた。

ウイリアム・シェイクスピアはこの会談に関する報告を本国のサー・パーシー・コックスに打電した。ところがその直後、シェイクスピアはアブドルアジーズがハサーを攻略し、カタルに至る480キロの海岸線を掌握したという知らせを受け取ったのである。

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2006年 アラブ イスラーム学院