サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


アブドルアジーズ王の外交法則

アブドルアジーズは正規の教育を受けてはいなかったが、外交をいかに成功させるかとか、優れた外交官に必要な原則とは何かを熟知し実践する能力をもっていた。読書と見識を高めることへの飽くなき欲求を父から受け継ぐ一方で、彼の天性の才能は彼が生きた時代と大きな出来事を通じて磨き上げられ、さらに豊富な経験を通じて生粋の外交官、職業軍人、老練な政治家にもまさるものに成熟していった。

彼は歴史を好んで学び、歴史から得られる教訓を師とした。クウェイト亡命中に彼が学んだのも歴史の教訓であった。サバーハ家の英邁な首長ムバーラクが巧みに英国をオスマントルコに対立させてクウェイトの安全保障という漁夫の利を占めていたのを目の当たりにしたが、これこそ彼が最初に学んだ外交学であった。この漁夫の利は小国クウェイトには不釣合いなほど大きな利であった。これによって彼が学んだものは「軍事的勝利は必ずしも政治的優位に直結しない」という法則であった。

この法則は多くの示唆をアブドルアジーズに与えた。例えば、敵に直面した場合は敵の力に合わせるか、それを無効にするか、あるいはそれと均衡を保つことが必要であることを彼に教えた。国際政治の真っただ中に追い込まれて弱い立場にあっても、そのために台風に吹き飛ばされずに済み、かえって国際間の微妙なバランスを保つ上で重要であることを、彼は認識したのであった。同時に、軍事力は外交の中に巧みに織り込まれるべきものであり、いかに強大な軍事力も決して充分とはなり得ないことにも気がついたのであった。歴史上多くの国が強大な軍隊を所有したのは外交が遅れていて目的を達成できなかったからであった。他方、外交が軍事力の前方を進んでいた国は国際的影響力をもつ国に成長した。19世紀末の世界の勢力地図はそれを如実に物語っていた。

巧妙な外交を展開して湾岸に着々と地歩固めていた英国についてアブドルアジーズは次ぎのように分析した。
1−英国は国の命運を制するほど重要な利害関係を湾岸に持ち、積極的にその利害の防衛に努めている。
2−英国は友好国との約束を守る信頼するに足る国である。
3−英国は敵にまわしてはならない国である。敵にまわせば仮借なき報復措置に出る。
4−生き馬の目を抜くような国際政治の駆け引きにあって考慮されるのは利害関係だけである。その防衛のためには英国もクウェイトも誰かれかまわず利用する。

この分析を通じてアブドルアジーズは一つの結論を導き出した。それは「自分が生き残って目的を達成するためには、自分の大切な利益を守るだけでなく自分自身の独立も維持しなければならない」であった。

アブドルアジーズがリヤードを奪回した時、英国は彼がいかなる目標をもっているのか判然とせず、彼が湾岸にある英国の同盟諸国を脅かすのではないかという懸念をもっていた。しかし英国はナジドに対する軍事干渉をしないようオスマントルコに警告した。これは英国が、サウード家をラシード家に対する対抗勢力として利用し、双方が度を越えない限度内で常に敵対する状況を作り出そうと考えていたからである。さらに英国は、独立したナジド国王にオスマントルコと湾岸の間の緩衝国的役割を果たさせようとも考えていた。

父祖伝来の領域を回復することが終局の目標であったアブドルアジーズは、周辺の侯国、首長諸国、外国勢力を刺激して無用の介入を誘発しないよう慎重に行動した。彼は湾岸の首長諸国に対して領土的野心のないことを宣言して安心させ、オスマントルコやラシード側を油断させておいて、機の熟するのを待った。

1910年代が始まると国際情勢が東に向かって動いていることにアブドルアジーズは気づいた。1911年にイタリアがオスマントルコ領のトリポリタニア(現在のリビア)を占領したし、翌1912年にはバルカン半島でもギリシア、ブルガリア、セルビア、モンテネグロがロシアの指導下にバルカン同盟を結成してトルコ領マケドニアを占領した。このバルカン諸民族の独立運動はオスマントルコの弱体化に拍車をかけた。国内の不統一と列強の露骨な介入に喘ぎながらも、オスマントルコはアラビア半島に台頭して来たアブドルアジーズに対する抑止力としてラシード家をはじめとする諸部族を煽動していた。この頃までのアブドルアジーズは内陸に閉じ込められて海に出ることのできない、いわば中央アラビアの囚人であった。西のヒジャーズにはオスマントルコ庇護下のシャリーフ家が君臨し、北にもトルコの支援を受けるラシード家あり、南には人間の侵入を阻む「虚無の砂漠」ルブウルハーリーが荒涼と広がり、東のハサーにはトルコ軍が立て籠もり、アブドルアジーズはナジドに封じ込まれていた。彼の領土には辛うじて自給自足が可能なナツメヤシ農業と、羊やラクダの飼育以外に何の資源もなかった。とりわけ旱魃に襲われた時の悲惨さは筆舌に尽くし難かった。何としてもアラビア湾への出口が欲しかった。1913年、彼は無謀ともいえるハサー攻略を決行し成功したのであった。

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2006年 アラブ イスラーム学院