サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


砂漠の獅子の死

1945年8月、日本の無条件降伏により第二次世界大戦は終わった。

すでに70歳近くになったアブドルアジーズ王の視力はとみに衰え、歩くこともままならなくなっていたが、気力は横溢し、意欲的に国の近代化に専念していた。

アブドルアジーズ王がエジプトを訪問し、ファールーク国王と親衛隊を閲兵(カイロ、1946年1月)
アブドルアジーズ王がエジプトを訪問し、ファールーク国王と親衛隊を閲兵(カイロ、1946年1月)(P.93-1)
1946年1月、アブドルアジーズ王はエジプトのファールーク国王の招待に応じ、国賓としてエジプトに2週間滞在した。王がその生涯に国外に出たことは3度しかなく、これが3度目であった。アブドルアジーズはファールークが差し向けた豪華ヨットにジェッダ港から乗り込んだ。ヨットがスエズ運河南端のタウフィーク港に着くとそこにファールークがアブドルアジーズを出迎えに来ていた。一行はスエズ駅から王室専用列車でカイロに向かった。アブドルアジーズ王が鉄道に乗ったのはこの時が初めてであった。カイロのラムセス中央駅からアブディーン宮殿まで、列車は沿道を埋め尽くした民衆の歓声の中を進んだ。エジプト滞在中、アブドルアジーズ王はこのアブディーン宮殿とアレキサンドリアのラァスッティーン宮殿にも宿泊し、その間ファールーク国王と技術面、教育面での援助を得るための交渉をおこなった。このエジプト訪問はサウディアラビアの近代化に具体的な成果をもたらした。1951年に首都リヤードと東海岸の代表港ダンマームを結ぶリヤード=ダンマーム国有鉄道が完成したのもその成果のひとつであった。

強健な肉体と堅固な意思の持ち主であった王は着実に晩年の下降期に入っていた。腸骨(腰骨の一部)には銃弾が貫通した穴が2ヵ所あり、右足には深い刀傷が生々しく残り、長い戦闘で受けた古傷は王の体を蝕んでいた。とくに両膝の肥大性関節炎は王に堪え難い苦痛を与えていた。左目はトラコーマによる角膜の損傷で失明していた。

アブドルアジーズ王を落胆させ激怒させたのは、1948年、パレスチナに新国家イスラエルが誕生した結果、170万というアラブの同胞が国を失ったことであった。この年、産油国ベネズエラが利益配分率50対50を実現した。これを機にサウディアラビアも石油収入の極大化に積極的に取り組むようになり、1950年12月にはアラムコとの間で50対50の利益配分の獲得に成功した。

今日のサウディ政府閣僚会議
今日のサウディ政府閣僚会議 (P.94-1)
アブドルアジーズ王がマッカに巡礼したのは1951年が最後であった。閣僚会議設置を定める勅令に署名したあとの1953年8月8日、王は静養のため、かつてルーズベルト大統領から贈られたDC‐3でターイフに赴いたが、同年11月9日、駆けつけた王族の見守る中、ファイサル王子の腕の中で息を引きとった。世界で最も長く王位にあって、君臨するだけでなく統治もした元首は永遠の眠りについた。遺体はただちにリヤードに運ばれ、サラフィーの慣習に従って葬儀も墓標もなしに埋葬された。今日その在処を知る者はほとんどなく、訪れる者もない。しかし、アブドルアジーズ王はサウード家の人々とサウディアラビア王国国民の心の中に生き続けている。

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2006年 アラブ イスラーム学院