サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


英国の後退と米国の中東進出

第二次世界大戦は、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻から、1945年8月15日の日本の降伏までの、ドイツ・イタリア・日本の枢軸国と、米・英・仏・ソ連・中国を中心とする連合国が戦った世界戦争である。

大戦勃発の影響はすぐにはアラビア半島に及ばなかったが、ほどなく海上交通が危険となってマッカ巡礼者は1940年に3万2,000人に激減、石油生産も制約を受けるなど、サウディアラビアの財政を圧迫する影響が出て来た。第7号井の出油に成功したあと、アブー・ハドリーヤやアブカイクで大油田を掘り当てていたが、輸送困難と物資不足の影響を受けて、日産量は数千バレルに圧縮されていた。加えて1940年にはナジド地方が旱魃と飢餓に見舞われ、アブドルアジーズ王は、ひとり財政上の危機にとどまらず、国民の生存そのものを脅かす危機にも直面した。

有史以来ナジドでは旱魃や飢餓は決して特別なものではなかった。ベドウィンは旱魃のたびに飢餓に耐え、少しでも食物を持つ者や長老たちが皆に分け与え、アッラーの助けを信じて待った。しかし1940年の旱魃ではアブドルアジーズ王ですら分け与える食物もそれを買う金もなかった。彼はこれまでたびたび援助をしてくれた英国に期待した。英国とて開戦後わずか9か月でフランスが降伏した後は欧州戦線で孤立し、ドイツの間断なき攻撃で補給路を断たれて国民は飢えに苦しんでいた。

しかし英国はイギリス連邦の一員たるカナダから小麦や小麦粉を、インドから米をアブドルアジーズに送ったほか、エジプトからも小麦・小麦粉を調達し、自国の王立造幣局鋳造のポンド金貨やサウディ硬貨を送った。ところがアブドルアジーズのトラック隊はスペアパーツの不足とメンテナンスの不備のためにすでに機能せず、またラクダ隊も旱魃のために瀕死の状態にあり、海岸に陸揚げされたこれら援助物資を中央に輸送することができなかった。英国はカソックに輸送を依頼した。

大戦中の6年の長い間、サウディアラビアの経済は壊滅的な打撃を受けた。これまで中東を英国の守備範囲と見做していた米国は、政府レベルでサウディアラビアとの関係が稀薄であった。ところがサウディアラビアで1938年に世界最大の油田を掘り当てたのが米国の民間会社であったことを認識すると、米政府のサウディアラビアへの関心はにわかに高まり、サウディアラビアに対して間接的ながら救いの手を差し延べた。開戦後わずか9か月で欧州戦線で孤立した英国を援助して米国は連合国への資金、武器の供与を積極化していた。米国は英国に借款を与え、サウディアラビアはこの米国の借款を英国から、1941年に500万ポンド、1942年に1,000万ポンドを受け取って当面の財政窮迫を切り抜けることができたのであった。

連合国に軍需品の支援を続け、1941年に太平洋戦線で日本と交戦状態に入った米国では、自国産石油の枯渇に対する懸念が強まった。連合軍の戦争持続の石油タンク役を果たしていた米国は、当時の世界消費総量の実に63パーセント、380万バレルを来る日も来る日も国内の油田から汲み上げていたのであった。危惧を感じた米国は急遽「外国の石油を燃やそう」の政策を打ち出し、代替補給国としてのサウディアラビアの保護・支援に乗り出すことになった。サウディアラビアに梃入れして自国の国益保全と国防維持を図ろうとしたのである。

フランクリン・ルーズベルト大統領はサウディアラビアにおける米国の石油利権を防衛するため、武器貸与法をサウディアラビアにも適用した(1943年)。武器貸与法とは、米大統領が米国の防衛に必要と考える諸国に軍需品を貸与する権限をもつことを認める法律で、ルーズベルト本人が議会で成立させたものであった。アブドルアジーズ王は米国から3,300万ドル(800万ポンド)の援助を受け、さらに戦後に見込まれる原油販売量に係わるロイヤルティーの前払い金として150万ポンドをカソックから受け取ったので、王の財政逼迫状況は緩和された。

さらに米国は、サウディ政府が米政府に対してサウディ原油の供給を保証する見返りとしてアラビア湾東岸から地中海に至る石油パイプラインを敷設することを提案した。戦時態勢の中でこの提案は実行に移されなかったが、1943年、米政府はラス・タヌーラに日産5万バレルの製油所を建設する計画を立てた。このプロジェクトは大規模な製油所、貯油タンクヤード、搬出施設を建設するだけでなく、バハレインで拡張中のバプコの製油所とを結ぶ海底パイプラインも含まれていた。戦時態勢の厳しい制限の中から貴重な鉄鋼資材が割り当てられ、トラックや建設機材のやりくりがつけられ、優先的に労働力や物資が供給された。

1944年1月31日、カソックはアラムコと改称した。米国の全面的梃入れ政策により、これまで厳しい制約を受けていた操業に活気が蘇った。すでに1943年9月にイタリアが降伏しており、戦局は連合国側に傾いていた。米国国内の「もっと石油を」の声に呼応して、アブカイクやカティーフで油井の掘削が再開された。製油所建設も少しずつ進捗を見せた。しかし遠く離れた地球の裏側から輸送されて来る資機材はしばしば魚雷の犠牲になった。住宅の準備が整う前に従業員が到着したり、資機材の到着が前後したりする混乱が生じたが、1945年3月にはバハレイン製油所へのパイプラインが操業を開始し、日本の無条件降伏によって第二次大戦が終結した直後の1945年9月、ラス・タヌーラ製油所は操業を開始した。米国の戦時特別プロジェクトは大戦終結と同時に完了したのである。

こうしてサウディアラビアに足場を確保した米国は以後、シオニズム運動を支援してユダヤ人の国家イスラエルの建国を支持すると同時に、産油国に資本進出して国益を守るという二面性を打ち出し、中東における影響力を強めていった。

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院