サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


石油の生産と第二次世界大戦―その3

第7号井を視察するアブドルアジーズ王(ダハラーン、1939年5月)
第7号井を視察するアブドルアジーズ王(ダハラーン、1939年5月)(P.75-1)
最初の石油積出しタンカー スコフィールド号を視察中のアブドルアジーズ王(ラス・タヌーラ港、1939年5月)
最初の石油積出しタンカー スコフィールド号を視察中のアブドルアジーズ王(ラス・タヌーラ港、1939年5月)(P.75-2)
ダンマーム・ドーム出油のニュースは世界を駆け巡り、翌1939年になると英国、ドイツ、オランダ、アルメニア、ソ連、日本などから続々と交渉団がリヤードを訪問、アブドルアジーズ王に面会を求めて門前市を成すほどであった。競争相手を排除して、さらに広範な地域での開発権を確保したいカソックにとり、何はともあれ現時点での存在意義を顕示することが必要であった。それにはアブドルアジーズ王に石油操業の現場を視察してもらうことが最も効果的である。おりしもラス・タヌーラからの原油積出し開始の態勢が整った。

1939年4月末、招待を受けたアブドルアジーズ王がリヤードから到着した。500台の車に分乗、大キャラバンを組んでやって来た王の一行2,000人はダハラーンの近くにテント村を設営した。第一船搬出の祝賀行事が盛大に行われ、王は現場施設を視察した。油井の掘削機を見るのも、パイプラインを見るのも、タンカーを見るのも初めてであった。王はラス・タヌーラに来港した最初のタンカー、スコフィールド号8,000トンの船上で食事をとった。いよいよ5月1日、王の手によってバルブが開かれ、この瞬間、サウディ原油は海外に向かって流れ始めたのであった。祝賀行事の一部始終は映画フィルムに収められ、何千枚という写真が撮影された。

この時までにカソックは、利権協定調印と同時に支払った3万5,000ポンドを始めとして、その18カ月後に2万ポンド、レンタル6年分3万ポンド、商業量発見時に5万ポンド、その1年後に再び5万ポンド、生産原油のロイヤルティー1トン当たり4シリングの合計約20万ポンドを王に金で支払っていた。アブドルアジーズ王の財源は少しづつ潤い始めた。こうしてサウディアラビアは世界市場へのアクセスを確保し、富と物質的快適さに満ちた明るい未来を謳歌するかに見えた。

一方、アブドルアジーズ王の現場視察はカソックにとっても新たな局面を開くこととなった。王はダハラーン滞在中、カソックの利権地域の拡大を認めることを示唆したのである。王の意向はただちに実現し、同じ5月の末、原協定地域の北部分および南部分をそれぞれ西方に拡大した地域でカソックの操業を許可し、さらに2箇所ある中立地帯のサウディ側権益分についても同社の操業権を認める追加協定が調印された。かねてから広範な地質調査を通じて開発規模の拡張を望んでいたカソックに、大きな飛躍の可能性が約束されたのであった。

それから4カ月のちの1939年9月1日、ヒトラーのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発した。タンカーの航行は危険となって国際石油市場は崩壊し、緒に就いたばかりのサウディアラビアの石油生産は急停止を余儀なくされた。アブドルアジーズ王やカソックがこの新しい富の源を活用する機会に恵まれるのは、やっと戦後になってからであった。

転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院