サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


石油時代の幕開け―その4

1923年に英国からの年間6万ポンドの援助金が打ち切られて以来、それまでに半島平定のために購入した武器や車両の代金の支払いに追われて国庫は底をついた。そこへ大恐慌でマッカ巡礼者が激減、巡礼税収も激減した。資金不足で統治の確立すら危うくなっている。私に金を持って来てくれる会社はないものか…。強い焦燥に駆られた彼はトウィッチェルに相談した。技術者として冷静なトウィッチェルは自信をもって、「もしバハレインで油田が発見されたら、地質学的に同様のハサーでも必ず出ます。陛下、バハレインの結果が出るまで待ちましょう」と言うのであった。バハレインで探鉱していたソーカルやバプコの石油技術者たちも全く同じこと、つまり、バハレインで油田が発見されればすぐ対岸のハサーにも油層があるはずだと考えていた。

1932年6月、バプコは石油を掘り当てた。初めてアラビア湾西岸で石油が発見されたのである。いよいよハサーでの油田の存在が有望となった。早速ソーカルはフランク・ホームズを通じてアブドルアジーズ王とハサーの利権譲渡の交渉に入ろうとしたが、アブドルアジーズ王がすでにトウィッチェルにハサーでの石油探鉱・生産に意欲的な会社を探すよう依頼していたことが判明したので、ソーカルはトウィッチェルに同社の技術顧問を委嘱した。次いでソーカルはフィルビーとコンサルタント契約を結び、1933年2月、法律顧問のロイド・ハミルトンと技術顧問のトウィッチェル、およびコンサルタントのフィルビーをジェッダでの利権交渉に臨ませた。次に来たのはイラク石油(旧アングロ=パーシャン石油)、さらに10年前アブドルアジーズからハサーの探査権を獲得していながら利権料を滞納して利権を無効にした例のフランク・ホームズがやって来た。アブドルアジーズ王はあの時の苦い経験を忘れてはいなかった。あの時、財政は困窮を極めていたにもかかわらず、ホームズ所属のシンジケートから利権料を受け取ったのは最初の2年だけだった。シンジケートにはあとの3年分6,000ポンドの貸しがある。財政の窮迫はあれ以来なにも変わっていない。もうあの時の二の舞は踏むまい…。

サウディ側交渉団はアブドルアジーズ王の右腕として国庫の管理に敏腕を発揮した財政相アブドッラー・スライマーンを長としていた。ペルシアやイラクにおける石油利権交渉で政府側が勝ちとった最良の条件について調査し熟知していたので、ハサー地方の利権の譲渡にあたってはサウディアラビアもそれに勝るとも劣らぬ有利な条件を引き出さねばならないと、なみなみならぬ決意のほどを見せていた。

利権交渉をすすめるにあたり、サウディ政府側は応礼者に対し、利権の落札者が調印と同時に10万ポンドを金で前払いすることを探鉱の前提条件とした。この桁外れの金額に驚いたフランク・ホームズは即刻交渉の場を立ち去った。ホームズは金10万ポンドという額に恐れをなしただけでなく、アブドルアジーズから利権料の不払い3年分を要求されるのではないかと恐れていたのである。次にイラク石油であるが、すでにイラクに潤沢な油田を保有するこの会社は、ハサーで石油が生産された場合に生ずる生産過剰と石油価格の下落を恐れるあまり、ハサーには石油はない、たとえ発見されても有望な油層ではないと盛んに言いふらし、とにかくソーカルをこの交渉から締め出そうとしていた。ソーカルを締め出すだけの目的で交渉団をジェッダに派遣したイラク石油は、始めからハサーの利権には関心がなく、交渉に深入りしない姿勢を保ち、アブドルアジーズの金10万ポンドの要求に対してインド・ルピーで1万ポンド相当額を主張した。結局、金で5万ポンド以上を支払う用意のあるソーカルにハサーの利権が譲渡されることになった。

こうして1933年5月29日、ソーカルは期間60年の利権を獲得した。ハサーだけでなく、アブドルアジーズの広大な領土の調査・探鉱についても優先権が認められた。支払い内容は調印と同時に3万ポンド、18カ月後に2万ポンド、毎年5,000ポンドのレンタル、さらに商業生産量発見の際に5万ポンドを2回、生産原油1トン当たり4シリングのロイヤルティーであった。また、政府側から見ても、有望な油層が確認された場合はただちに開発・掘削に着手することと、製油所を建設することを義務付ける条項が利権協定に盛り込まれたことは画期的な意味をもつものであった。アブドルアジーズが米国の会社に利権を譲渡したのは、支払い条件で同意に達したためだけではなかった。彼は、国の政策が強く反映される英国の石油会社より、企業としての自主独立性が強く、政府からの影響を受けない米国の会社を選んだのであった。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院