サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


石油時代の幕開け―その3

アブドルアジーズはハサーの砂漠の下に石油があるとは少しも思っていなかった。だからこそ彼の決定は早かった。年間わずか2,000ポンドというホームズのオファーを受け入れたのだ。実のところ、ありもしない石油を求めて無駄な探査をする者からいくら利権料をとればよいかの見当もつかなかった。もし彼がそこに油田存在の可能性ありと確信していたなら、もっとじっくりと時間をかけて、もっと良い条件の提示者に利権を供与したはずである。ところがその時、アブドルアジーズが第一次大戦後毎年英国から受け取っていた年間6万ポンドの援助資金打ち切りの通告があったのだ。つい先年の1920年に西南部のアシールを陥とし、また、北方のハーイルを征服してラシード家を滅ぼしてこのかた、彼の支配する領土は拡大したが、それは彼に忠誠を誓う部族長の増加を意味し、この忠誠心に対する彼の支払額は倍増し、彼の財布は底をついていた。そこへ英国からの援助打ち切り通告である。今や些少でも喉から手の出るほど金が欲しかったアブドルアジーズはホームズにただ同然の金額でハサーの石油探査権を譲渡したのであった。

ホームズの所属するイースタン・アンド・ジェネラル・シンジケートは早速ハサー地方に地質技師を派遣して調査に当たらせたが、ここでは石油の痕跡すら確認することができなかった。そこでシンジケートはこの利権を転売しようとしたが、いずれの石油会社も一顧だにしなかった。シンジケートは最初の2年間は利権料を払ったが、そのあとの3年間は支払いを履行せず、結局この利権は無効となった。

フィルビーはアブドルアジーズ王の信頼に応え、常に親身になって王の利益になるよう心を砕いていた。誰かこの王の助けになる人物はいないかと考えた末、フィルビーが思い付いた人物は、第一次世界大戦後のオスマントルコ領分割問題調査委員会でウイルソン大統領の特使をつとめたことのある実業家チャールズ・クレインであった。アラブ世界に魅せられた文化人であり慈善事業家であったクレインは、すでにイェメンに港、橋、道路などを提供していた。このクレインこそが、サウディアラビアを世界に冠たる産油国へと導く大油田発見を媒介した人であった。

アブドルアジーズの要請に応じてクレインは1931年2月にジェッダへやって来た。アブドルアジーズが会った初めてのアメリカ人であった。アブドルアジーズが求めていた100万ポンドを持っては来なかったが、彼はアブドルアジーズに「ここには何らかの地下資源があるかも知れません。よしんば水だけだとしても、地質調査をするだけの価値がありましょう」と言い、6ヶ月間の地質調査を無償で引き受けることを申し出た。この申し出はアブドルアジーズにもジェッダの有力者たちにも、クレインが必ずジェッダに水をもたらしてくれるとの期待をもたせた。

米国に帰ったクレインは同年4月、探鉱技師カール・トウィッチェルをサウディアラビアに派遣した。イェメンやエチオピアなどで調査の経験をもつトウィッチェルは、クレインに指示された通り、ジェッダ周辺に水資源が存在するかどうかを調べたが、彼はその可能性は少なく農業も不可能と判断した。次いで彼はマディーナの南東方にあってソロモン王が所有していたといわれる伝説的な金鉱マハド・アッザハブを調査し、同年11月には東部のハサーに赴き、翌32年初頭にかけて一帯を調べて回ったが、石油の存在を示唆する材料を見付けることができず、リヤードに戻って来た。ただトウィッチェルは対岸のバハレインでソーカル(スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア)の子会社バプコ(バハレイン・ペトロリアム・カンパニー)が行なっている石油探鉱作業に強い関心を寄せていた。バハレインの利権は1925年にホームズが手に入れ、1927年にガルフ石油に転売し、ガルフがさらにソーカルに転売したものであった。

トウィッチェルから、ジェッダ周辺に水資源はないとの報告を受けた時、アブドルアジーズもジェッダの有力者たちも失望したが、他の地下資源の兆候の有無を尋ねた。トウィッチェルは紅海沿岸で何箇所かの石油の地表兆候を目撃し、マハド・アッザハブの古代金鉱についても採鉱可能と判断していたが、技師としての慎重さから明言を避けて、さらに調査する必要があると答えた。事ここに至ってアブドルアジーズは王国の近代化プロジェクトをほとんど断念せざるを得ない状況に立ち至った。彼が常々配下として見ていた小国クウェイトやバハレインの首長たちが不相応な額の利権料を手に入れているのにひきかえ、自分は何も得ないで貧困の極にある。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院