サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


イェメンとの和約

1934年の春、アブドルアジーズ王は二人の息子、サウード王子とファイサル王子をイェメンに侵攻させた。これがアブドルアジーズ王にとって他国との最後の戦いとなった。この戦争でアブドルアジーズは無線通信を採用し、それが真価を発揮したことはこの国の近代化を方向づける画期的な出来事であった。

現在でもサウディアラビアとイェメンとの国境は明確でないが、アブドルアジーズの頃はさらに漠然としていて、かねてよりイェメンは虎視眈々とすぐ北側にある南アシールとナジュラーンの領有を狙っていた。これらの地方は双方が領有を主張しながら、実際には統治していない、いわば中立地帯のような地域であった。

第一次大戦後、イェメンはイマーム・ヤヒヤーが支配しており、相も変わらずアシールとナジュラーンの併合を企てていた。1925年、ヤヒヤーはアブドルアジーズがヒジャーズのシャリーフ家と戦っていた隙に乗じてナジュラーンに侵入してこれを占領した。アブドルアジーズは息子サウードをナジュラーンに差し向けてこれを奪回、交渉によってイェメンとの国境を定めようとしたが決着をみず、その後も1932年にイェメン軍がこれらの地方に侵入した。アブドルアジーズは軍隊を派遣してイェメン軍をナジュラーンから撃退したが、アシールの方はヤヒヤーに煽動された地元民ゲリラが山岳地帯で反サウード王国の行動を展開して混沌状態が続いていた。

アブドルアジーズ王は交渉による平和的解決をイマーム・ヤヒヤーに求めたが、ヤヒヤーは話し合いに応じなかった。そこで王はサウード王子とファイサル王子の軍にイェメンへの進撃態勢をとらせ、ヤヒヤーに対して1934年4月5日までに交渉に応じない場合はサウード軍をイェメンに侵攻させるとの最後通牒を送った。

二人の王子には無線通信装置を装備させ、4月5日の当日になって王から特に指令がなければ即刻国境を越えよとの指示をした。当日、王から特別の指令は来なかった。実は、王は「軍事行動を延期せよ」の指示を発信したが、激しい砂嵐に電波が妨げられて両軍に届かなかったのであった。両軍は進撃を開始した。アシール山地を進んで敵の要都サヌアに向かったサウード王子の軍は険しい山岳地帯と執拗なゲリラの抵抗に阻まれて難渋を極めた。平坦な砂漠での戦闘に慣れた兵員が急峻な崖をよじ登り、切り立った岩の上を行進することは極度に困難な行動であった。一方、ティハーマ海岸を南下したファイサル王子の軍は順調にイェメン領内に入って紅海岸の港町ホデイダを占領した。

この時、両王子は父王アブドルアジーズから「前進を停止せよ」との無線連絡を受けた。サウードはナジュラーンに、ファイサルはホデイダに軍を駐留させた。ホデイダに達したファイサルにとっても山岳地のサヌアも、英国植民地アデンも至近距離にあった。しかし王のこの指示は重要な意味を持っていた。当時、イェメンは欧州列強の戦略の上で喉から手が出るほど欲しい拠点であった。とりわけムッソリーニ政権下でエチオピアの占領を企てていたイタリアは、対岸のイェメンも確保しておきたかった。また、アデンはすでに1902年以来、英国の植民地であり、その周辺のアデン保護領も実質は英国の領土であった。イェメンでの不測の事態を恐れた英、仏、伊はホデイダに艦艇を急行させた。

もし、アブドルアジーズ王が王子たちに前進停止の指令を無線で伝えなければ、両軍は交戦により味方にも敵にも無用の犠牲を出したであろうし、また、介入した列強と無意味な対立を生じたであろうことを考えると、意思の迅速な伝達を可能とする無線の果たした役割は大きかった。実際、英、仏、伊はアラブの調停団とともに調停に乗り出し、ターイフで交渉の結果、イマーム・ヤヒヤーはアシール地方領有の野望を放棄し、翌1934年5月締結の講和条約でナジュラーン、アシール、ジーザーンがサウディアラビア領土であることを認め、イェメン派兵に要した費用の一部賠償金10万ポンドをアブドルアジーズに支払うことを約した。勝利したアブドルアジーズ王が領土拡張の野望を持たず、現状維持にとどめただけでイェメンの併合を要求せず、賠償金支払いについても寛大で控えめな条件で妥結したことはアラブ世界で高い評価を得た。

この戦争で痛感されたことは、近代的な大型車両による兵員や武器弾薬の輸送を可能にする道路網整備の必要性であった。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院