サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


国章の制定

子息2代国王サウード(右)、3代国王ファイサル(左)とアブドルアジーズ王(リヤード、1951年10月) (P.54−1)

国章“繁栄は正義によってのみ達成される”の意味が込められている(P.56−1)
西暦1932年9月22日、アブドルアジーズ王が、ヒジャーズ=ナジド複合王国を「サウディアラビア王国」の名の下に統合したことは、一国の元首としての彼のなみなみならぬ自信のほどを示すものであった。その名、アル・マムラカ アル・アラビーヤ アッサウーディーヤは「サウード家のアラビア王国」を意味し、サウード家が厳然と君臨し支配・統治する王国であることを内外に誇示するものであった。

鍛え抜かれた体格と強靭な意志を兼ねそなえたアブドルアジーズも、この時すでに50代なかばとなり、慢性の眼病で左目はほとんど視力を失っていた。戦闘での古傷で膝も不自由になっていた。1902年、わずか40名の手兵を率いてラシード家からリヤードを奪還して以来、早くも30年の歳月が流れていた。思えば戦いに次ぐ戦いの半生であった。「アラビア半島の王」として君臨することがアッラーから与えられた使命と信じ、その実現のために領土を拡張してきたのであった。

1904年にはリヤード北方にラシード軍を撃破してオナイザを攻略した。1906年には、やはりラシード家の手からブライダを奪った。1919年、最愛の妻ジャウハラ、20歳になった息子トルキー、さらに2人の息子が、世界中に猛威を振るったインフルエンザの犠牲となった。悲報は、アブドルアジーズがマッカ東方のホルマでヒジャーズ軍と対峙していた時に届けられた。彼の生涯を通じて最も悲しい試練の年であった。その間、アラビア半島の中部や東部からのオスマントルコ勢力の撤退も実現させた。1921年にはラシード家を滅ぼしてハーイルを掌中におさめた。1922年、北部のジョウフも攻略して支配下におさめた。1925年末にはヒジャーズを支配していたシャリーフ家を滅亡させ、翌年初めにアブドルアジーズがヒジャーズ王国の王となった。1930年、かつては彼の王権拡張のために献身的な貢献をした同胞団の反乱も鎮圧した。そしてこの度の国名改称により、アブドルアジーズは名実ともに広大なアラビア半島の大部分を占める王国の支配者となったのであった。

アブドルアジーズ王は、自らが営々として築き上げた王国を象徴する紋章を定めた。まず、30年にわたる奮戦力闘に彩られた王国への道程を、交叉する二振りの剣により表象した。次にアブドルアジーズは、この十字の剣の上に、図案化したナツメヤシを据えた。彼の半島統一の覇業は、同胞団の協力のたまものであった。にもかかわらず、彼が敢えてアラビア半島の象徴的な風景であるベドウィンやラクダをデザインとして用いなかったのは、近年になって同胞団がアブドルアジーズに離反したからであった。1930年、サビッラにおいて同胞団反乱軍を制圧したのも、彼の領土拡張が終焉を迎えたことを意味していた。今や彼がサウード家による支配の確立と維持のために必要不可欠と判断したのは、サウード家の出自がそうであったように、定住民を優先的に考えることであった。国章のデザインに彼が選んだナツメヤシは、オアシス定住民の樹木であったのである。

 第一次世界大戦後の世界は急速かつ大きく動いていた。つい数年前までアラビア半島に兵を駐屯させていたオスマントルコはすでに地球上から消滅し、その領土もアナトリア以外は列強により分割されていた。アブドルアジーズ王が着手すべき緊要の課題は、イスラームの聖地マッカを抱えることとなったサウディアラビアを、イスラーム世界の盟主としての地位を保ちつつ、西欧文明の利器や制度の長所を活用して、列強に伍するに足る強力な近代国家に育て上げることであった。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院