サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


サウディアラビア王国の建設―その1

念願のヒジャーズ併合が達成された。同胞団の手でアラビア半島統一の夢が実現したのだ。

アブドルアジーズには是非ともイスラーム諸国やヨーロッパ列強からも、自分のヒジャーズ統治の承認をとりつける必要があった。「ヒジャーズの諸問題はイスラーム諸国会議で決定する」と公言してきたのだが、未だ会議を経ずに、自らヒジャーズ王に就任していたからであった。この点をエジプトやインドなどのイスラーム諸国は快く思っていないことだろう…列強はどう見ているのだろう…だが、すぐにアブドルアジーズのこの不安は拭われた。ソ連が、英国が、フランスが、オランダが、次々と彼の「ヒジャーズの王およびナジドとその属領のスルターン」の就任を承認したのだ。

ヒジャーズの王はイスラームの二大聖地の守護者でもある。イスラーム諸国からの承認は列強のそれ以上に重要であった。アブドルアジーズは第一回イスラーム諸国会議を巡礼終了後のマッカで開催した(1926年6月)。トルコ、エジプト、インド、アフガニスタン、イェメン、ジャワ、ソ連、パレスチナ、その他多くのイスラーム国やイスラーム機関から代表が参加したこの会議において、アブドルアジーズは自らのヒジャーズ王の地位を揺るぎないものとした。そしてヒジャーズ王国の憲法ともいえる統治基本法を公布し、ヒジャーズの統治機構の整理や秩序作りに精力的にとり組みはじめた。

一方、同胞団兵士たちはヒジャーズからサラフィー思想に反する風習を一掃しようと奔走していた。彼らはアッラーがクルアーンの中で認めないものは、すべて認めなかった。飲酒はもちろん喫煙を禁じ、音楽や贅沢な暮らしを非難し、聖者や英雄を祭った廟所や石碑を撤去し、異端と決めつけたものを躊躇なく取り壊していった。ウラマーたちの間では、電話やラジオ放送にいたるまで忌まわしいものとして排斥しようとする動きがでた。無線通信機や電話線には悪魔が宿っていると彼らは考えた。アブドルアジーズはラジオを通して聖典クルアーンを流し、ウラマーにも同胞団にも放送の必要性を認めさせている。

半島の最も先進地域であるヒジャーズ全域が支配下にはいった今、武力ではなく秩序の力でヒジャーズを統制していかなければならない。アブドルアジーズは同胞団兵士たちの行き過ぎる行動を制御する必要を感じていた。そんな折に、マハマルの事件が起きた。

イスラーム諸国会議の開催を間近かに控えた巡礼期間中に、エジプトの巡礼団と同胞団の間に衝突が起きた(1926年6月)。巡礼月9日のウクーフの日(アラファートの丘に立って祈り、ミナに移動する日)に、エジプト巡礼団はキスワ(マッカのカアバ神殿を覆う黒布。美しい金糸刺繍が施されたこの掛け布は、毎年巡礼時に新しく取り替えられ、当時は毎年、エジプトから贈られていた)を運ぶマハマル(乗り物)を先頭に、ラッパを鳴らし音楽をかなでて賑やかに行進していた。ミナの谷付近にいた同胞団兵士が巡礼に音楽は禁忌であるとして行進を阻止しようと、エジプト軍の楽士に向かって投石した。巡礼中のマッカでは武器の携行が禁止されていたので同胞団兵士は武器を持っていなかったのだが、エジプト人将校が発砲したため25人もの同胞団が射殺され、多くの負傷者がでた。怒りの声がわき上がった。同胞団が危害を加える行動にでるのを恐れて、アブドルアジーズはただちに同胞団を鎮静させ、エジプト人将校を拘束し、マハマルのマッカ入りを禁じた。

外国人巡礼団は賓客である。また大事なイスラーム諸国会議をすぐ後に控えていたこともあって、処罰は差し控えた。同胞団兵士はこの措置に不満であった。25人もの仲間が射殺されて処罰が無いとは!アブドルアジーズは彼らの心情を十分察していた。彼らの宗教的感情を無視することはできない。今後はサラフィー運動が提唱する厳格なイスラームの戒律を順守すべしと命令を出した。自らの信仰心と威信を示すためでもあった。礼拝を怠った者に対して、飲酒した者に対して、酒の製造や販売に関わった者に対しても処罰を行なうとし、厳格にヒジャーズの宗教的環境の浄化を実施していく姿を見せた。

1926年7月にはナジドとヒジャーズのウラマー12人からなる勧善懲悪本部が創設された。この下に支部が設けられ、さらに全国に多数の支部が作られて、宗教的義務の違反の取締りにあたることになった。まもなくこれは宗教警察のごとき組織となり、反体制の活動を弾圧する手段としても利用されることになる。これによって一般大衆を取締る役目も権限も同胞団兵から支部のもとに移り、仕事がなくなった同胞団兵士の各部隊は解散して、それぞれの開拓村に帰っていった。

ヒジャーズ併合の立て役者たちには戦利品の恩賞は無かった。期待は裏切られた。このときから同胞団の間にアブドルアジーズに対する失望と不満が生じ始めた。

アブドルアジーズが英国との間で取り決めた国境画定協定も同胞団の期待を裏切るものだった。協定によってイラク、ヨルダン、クウェイト国境付近での襲撃活動が禁止されてしまった。宗教的名分にも適う、シーア派遊牧民に対する襲撃と略奪は、いまだ彼らの経済活動の一部となっていたのだが。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院