サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


ヒジャーズ併合―その2

1924年11月、アブドルアジーズはリヤードを出発し、12月にターイフからマッカに入った。身を清め、巡礼布をまとい「ラッバイカ、アッラーフンマ、ラッバイカ…(アッラーよ、あなたの御前にはべります)」と唱えながら、大勢の市民が出迎えるなかを、ハーリドと同胞団兵士に守られてアブドルアジーズは裸足になって聖なるモスクにはいっていった。カアバ神殿にひざまづき、神殿の黒石に口づけして、静かに礼拝をおこなった。

翌日、マッカの郊外に設置した天幕の中でアブドルアジーズは住民を代表する人びとの表敬を受けた。ヒジャーズの住民はすでにヒジャーズ軍の力が同胞団部隊に及ばないことを理解していた。軍事対決を避けて、妥協点を探ろうと同胞団側との調整に努力を重ねていた。

アリーは不安であった。ナジドとその属領のスルターン、アブドルアジーズは着々とヒジャーズ地方の支配体制を固め、マッカの住民の支持を集めていくではないか。アリーはジェッダにたて籠り、軍事対決の構えをみせた。

アブドルアジーズはジェッダへの進軍を許可した。同胞団はただちにジェッダを包囲した。包囲軍はナジドの定住民部隊、オタイバ族、カハターン族、ハルブ族、ムタイル族その他の大同胞団部隊であった。アブドルアジーズは強行突入を避け、包囲作戦でアリーの降伏を待った。ジェッダの城壁内には諸外国の領事館が置かれており、外国人居留者の安全に配慮したためでもあった。

巡礼(ハッジ)の月がやってきたが、ジェッダの包囲戦は続いていた。アブドルアジーズにとっては、聖地マッカの守護者として、スルターンとして、安全無事にこの大行事を終わらせねばならない。イスラーム諸国から多くの来客を迎えるこの時期だからこそ、内外の信徒に、聖地の管理者に相応しい能力を示さねばならない。ジェッダ港が封鎖されて利用できないため、アブドルアジーズはジェッダ以外の港から安全に巡礼者を受け入れることを約束し、海外のイスラーム諸国に例年どおりの巡礼を呼び掛けた。この年巡礼に参加した人々は少なかったが、行事は無事に終わった。

マッカ大公アリーにとっては、これは大変な屈辱だった。その上ジェッダの城壁内では、もはや資金も水も食糧も底をついて、状況は全く悪化していた。兵士の士気もすっかり低下してしまった。アリーの再三の援軍要請に英国が応えてくれる望みも、もはやないようであった。英国はアブドルアジーズと国境画定協定の交渉を進めていた。

英国はアブドルアジーズが確実にヒジャーズ地方を占領していく状況をみて、早急にヒジャーズとヨルダンのあいだに国境を画定する必要を感じた。アブドルアジーズにとっても、ヒジャーズの併合を承認させるためには国境の画定が必要であった。そこでナジドとイラクの間を定めた「バハラ協定」、ヨルダンとの間の「ハッダー協定」が調印され、これに従ってクウェイト、イラク、ヨルダンとの国境が決められた(1925年11月)。しかしながら協定が結ばれたにも拘らず、国境の問題はその後も紛争を起こすもととなっている。

1925年12月、アリーはついに退位を決意し、降伏した。そしてバグダードの弟ファイサルのもとに身を寄せるため、ジェッダを去っていった。ジェッダは開城された。続いてマディーナとヤンブーの町も降伏した。アブドルアジーズはジェッダ郊外に設営した天幕で次々とヒジャーズ軍の司令官やジェッダの有力者たちから忠誠の誓いを受けた。
ジェッダの有力者たちはヒジャーズ地方の独自性を守ることに執着していた。ヒジャーズはナジドとは文化のうえでも経済的においても比較できない先進性のある社会であったから、ナジドに吸収されることはとても了承できないことだった。アブドルアジーズは、ヒジャーズの諸問題はイスラーム諸国会議で協議し、その決定に委ねる、と公約した。

ヒジャーズの住民はアブドルアジーズをヒジャーズの王に推戴した。同じ君主が兼任することで、ナジドとヒジャーズは別個の地位と独自性を保つことができると期待した。ナジドのスルターンはヒジャーズの王ともなった。

1926年1月8日、マッカの大モスクの前でアブドルアジーズのヒジャーズ国王即位の式典が行われた。正午の礼拝の後に祝砲が放たれ、人々の歓呼のなか、「ヒジャーズの王およびナジドとその属領のスルターン」が誕生した。マッカやジェッダの有力者たち、ウラマーたちが続々と祝賀を述べ忠誠を誓った。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院