サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


ヒジャーズ併合―その1

「アラブの反乱」の英雄として、アラブ民族主義運動のシンボルとして登場した大公フセインには、「アラブの王」の座が約束されていたはずであった。しかし、第一次世界大戦後に英国がフセインに求めたものはパレスチナの地にシオニストを受け入れることであった。怒りを露にするフセインに、英国のチャーチルはローレンスを派遣して、ひき続き多額の補助金を与え、ヒジャーズを外敵から保護していく約束を申し出た。フセインはこの申し出を拒絶した。それはまた、英国からの援助を失うことであった。

かつてオスマントルコから援助を受け、その後は英国からの補助金を受けてきたフセインのヒジャーズは、この大きな収入減を増税で補おうとした。巡礼者に対する巡礼税、ジェッダ港の貨物税、関税の引上げなど、様々な新税・増税の措置が取られた。人々の負担が増大し、不満も大きくなった。遊牧民のなかには巡礼者を襲って略奪するものも出てきた。治安が悪化したうえ、経済的な負担も膨れて、巡礼者を送り出すイスラーム諸国からもフセインに対する非難は高まっていた。

そんな折、フセインは内外からの痛烈な非難をあびることになる大きな過ちを犯してしまった。オスマントルコ帝国が崩壊して、トルコ共和国政府がカリフ制度を廃止すると、フセインは自らカリフに就任することを宣言したのである。あまりに露骨なこの野心に、エジプトが、インドが、英国が、そしてもちろんナジドのアブドルアジーズも、強い不快感を示して反発した。とくに巡礼制限を受けてきたムワッヒドゥーンのナジド住民から見れば、フセインは堕落した異端者の見本のような男である。アッラーの使徒の後継者(カリフ)を名乗ることなど絶対に許せなかった。彼はマッカの礼拝に課税し、巡礼を制限し、モスクを虚飾で飾り立てているではないか。

アブドルアジーズは今こそフセイン打倒にのり出すときと判断した。

1924年7月、イード・ル・アドハー(巡礼月の犠牲際)の祝賀に集まった同胞団の有力者たちに、アブドルアジーズはヒジャーズ攻略の計画を語り、熱狂的な支持を得た。イスラームの聖地浄化をかかげて、同胞団の聖戦が準備された。

オタイバ族の族長イブン・ビジャード率いるオタイバ族同胞団とカハターン族、それにハーリド率いるホルマ部隊が合流して、まずターイフに向けて進行を開始した。ターイフの守りを固めていたヒジャーズ軍は町の北西の高台に後退し、フセインの長男アリーが率いる救援部隊と合流して砲撃で防戦にあったが、同胞団諸部族の猛攻にはとても太刀打ちできず、たちまち敗退した。ターイフを占領した同胞団は、このとき長年のうっぷんを晴らすかのごとく徹底的に略奪を行い暴れた(1924年9月)。アブドルアジーズはこれを憂慮し、外国からの干渉を避けるためにも同胞団の暴力行為を禁じて、イブン・ビジャードとハーリドに対しては指示があるまでマッカに進攻しないよう厳しく注意を与えた。

ターイフ陥落の知らせに、ヒジャーズの人びとは大変な脅威がやってきたことを悟った。フセインもかつてない難事に直面したことを知った。フセインは英国に軍事介入を求めたが、英国はこれを拒否した。ジェッダの住民もこぞって英国の保護領下にはいることを望んだが、聖地を含むこの地域の問題に介入することを、英国は慎重に避けた。

アブドルアジーズの攻撃を恐れたヒジャーズの人々は、フセインに退位を求めて、ナジドとの和解の道を探ろうとつとめた。アラブの王とカリフの呼称を放棄すること、長子のアリーにマッカの大公位を譲ることを要請した。フセインはこれを受け入れ、家族とともにマッカを出てジェッダに移り、ジェッダ港からアカバに向けて発った(1924年10月)。

ヒジャーズでは新しい政府が組織され、アブドルアジーズとの和平交渉の準備が進められていた。その一方で、マッカ大公アリーはジェッダの防備を強化し、アラブ諸国から傭兵を集めていた。聖地マッカが戦場になるのを避けるため、軍をマッカから移動させてジェッダ寄りのバハラの地に駐屯させた。ところが、そのため無防備となったマッカの町に無法者が侵入をはじめ、略奪行為が頻繁に起こるようになった。知らせを聞いて、ターイフに止まっていたイブン・ビジャードとハーリドはアブドルアジーズの指示を待たず、ただちに同胞団部隊を率いてマッカに進軍し、流血を見ること無く聖地を占領した(1924年10月)。

マッカは同胞団の制圧下に入った。同胞団兵士は聖地においては軍規正しく行動した。聖域を洗浄し、モスクの華美な装飾を取り除いた。聖人たちの墓所を壊したり、煙草を焼き捨てたりと極端な行動もとったが、マッカ占領は思いもかけない形で成功した。アブドルアジーズはハーリドをマッカ知事に、イブン・ビジャードをターイフ知事に任命した。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院