サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


英国の接近―その3

同じ頃、フセインも英国に対する不信感を深めていた。秘密裏に締結されていたサイクス=ピコ協定(1916年5月、英・仏・露3国がオスマントルコ領アラブ地域の将来の勢力範囲の分割を取決めた。仏が領有を主張するシリア地域は、英国がすでに「アラブ(連邦)」建設を約束していた)が公けになり、「アラブの反乱」が実は英国のシナリオによる謀略にのったものだったと暴露されたからである。さらにバルフォア宣言(1917年)が公表されて、パレスチナの土地にはユダヤ人にも郷土建設が約束されていることが分かったのだ。この時点ではすでに全面的に英国の援助に依存していたフセインだった。彼には怒りを露にする以外に為す術がなかった。

そのころナジドとヒジャーズの境界地区にあるホルマ村の領主ハーリド・ビン・ルアイがフセイン側と対立を起こし、アブドルアジーズの陣営に参加を表明したことから、フセインとアブドルアジーズとの間でついに衝突が起きた。フセインは直ちにホルマ村の攻略を命じた。しかしながらフセインが送ったヒジャーズ部隊は、同胞団を味方にしたハーリド軍によって迎撃され、あっけなく敗走してしまった。同盟者どうしのこのようなトルコ軍を利するような行動に英国は苛立ちを見せ、アブドルアジーズに対してハーリドへの支援を停止するよう強く要請した。

まもなくして第一次世界大戦が終結した。マディーナで籠城を続けていた最後のトルコ軍部隊も降伏した。トルコの脅威が消えて、まず、サウード軍に戦いを挑んできたのはフセインだった。息子アブドッラーを指揮官に任じ、新兵器で装備された強力なヒジャーズ軍をホルマ村の奪回に向かわせた。途中ホルマ近郊のトラバ村占領すると、この村を略奪し、同胞団の住民を徹底的に殺戮した。報告を受けたアブドルアジーズは直ちに大軍を動員して自らトラバに向かった。

それには及ばなかった。トラバ村近くに集結していたイブン・ビジャード指揮下のオタイバ族の同胞団部隊やイブン・オマル指揮下のカハターン族、ハーリド指揮下のホルマ村の部隊が、三方からアブドッラーの陣営を急襲した。ヒジャーズ軍は不意をつかれたうえ、同胞団部隊の勇猛ぶりに恐慌してなすすべなく、アブドッラーも慌ててターイフに逃げかえった。ヒジャーズ軍の残した新兵器が同胞団の手に移った。同胞団の戦闘力に恐れをなしたフセインは英国に支援を求めた。

このときも英国はフセイン側を支持する立場に立った。ホルマ村はヒジャーズの一部とみなされ、その宗主権はフセイン大公にあるとし、アブドルアジーズに対してこの問題には介入しないよう警告した。アブドルアジーズは警告を無視し、同胞団を動員してアブドッラーの軍を全滅させる行動に出た。警告を無視したことに対して、英国政府はアブドルアジーズへの補助金の交付を打ち切った(1919年5月)。さらに、同胞団をナジドに引き揚げること、ホルマの地域については境界の画定交渉が済むまで領有しないことを強く要求し、応じない場合には軍事制裁を行なう構えを見せた。アブドルアジーズは要求を受け入れ、このときは軍を撤収したが、彼はヒジャーズ併合の道に確実に手応えを感じでていた。彼の中に大きな自信が生まれていた。

ホルマ村の境界問題はその後5年の間、未解決のままであった。

第一次世界大戦当時はアシール地方もトルコの統治下にあった。地元のアーイド家のハサンがトルコの代官を務めていたが、終戦とともにトルコの軍隊が去ると、このハサンが実権を握りアシール地方の支配者となった。しかし横暴な統治の在り方に反発したカハターン族や他の部族がアブドルアジーズに代表を送って陳情した。アブドルアジーズは他部族の権利も尊重するよう要請したが、ハサンはこれを受けつけなかった。そこでアブドルアジーズはビン・ジルウィーに軍の指揮をゆだねてアシール地方を制圧させた。このときはハサンはサウード家の統治を受け入れたものの、やがてサウード家の派遣した知事ウカイリーとのあいだに衝突が生じると、アーイド家の一族を糾合して反乱を起こした。好機とばかりにヒジャーズのフセインが介入し、ハサン側の援護にまわり、武器や兵力の支援をした。勢いを得たハサンの反乱軍はアブハーを占領、ウカイリーは降伏した(1920年)。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院