サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


リヤードへの帰還−その1

今、サウード家は再びリヤードの主となった。アブドルアジーズはクウェイトの父のもとにリヤード奪回の成功を伝える使いを差し向け、父と一族をリヤードに迎え入れる準備をした。
リヤードの住民は、ムワッヒドゥーンの主導者でありサウード家の首長であるアブドッラハマーンの一行を歓喜して迎えた。

アブドッラハマーンは町の有力者やウラマーたちを呼び集めると、一同の面前でサウード家首長の座を息子アブドルアジーズに譲ること、サウード軍の指揮権や政治の全権を彼に任せること、そしてアブドッラハマーン自身はイマーム(イスラーム諸国の宗教的最高指導者)の地位と称号を保持することを伝えた。サウード家に代々伝えられてきた首長の証である「ラハヤーンの剣」が、父から息子の手に渡された。政治と宗教二つの権力を分担したふたりは、常に連帯して助け合った。父を深く敬愛する息子は、父を最高顧問として、私的にも公的にもその権威を大切にした。父は息子が出陣して留守の折には、しっかりとその代理をつとめて息子の信頼に応えた。

もちろん、ラシード一族がこのまま手をこまねいているはずがなく、1902年秋には新たな作戦行動を起こしていた。アブドルアジーズはリヤードに安住してはいられなかった。崩れた城壁を急ぎ修築し、包囲に耐えるようしっかり補強した。そして十分な食糧を貯蔵して、リヤードの守りを父と地元の守備兵に委ねると町を出た。周辺の部族は貧しく、その多くが味方ではあったが、戦闘になっても大きな兵力を供給する力はなかった。町を出て軍を整え、自由に襲撃できる拠点が必要だった。サウード家の今の力で強力なラシード軍に真っ向から太刀打ちできる見込みは少ない。アブドルアジーズは南に向かった。そしてできるだけ敵を南におびき寄せる戦術をとった。アブドルアジーズと部下たちはそれぞれナツメヤシの林に姿を隠し、奇襲の銃撃によって押し寄せるラシード軍を追い散らす作戦にでた。あちこちから不意をつかれて、ラシード軍は混乱の中で手痛い打撃をうけて退却した。

ラシード軍の攻撃を退けたニュースは四方に広がり、人々はアブドルアジーズのもとに馳せ参じた。ナジド地方南部のほぼ全域が味方として参戦するようになった。

ラシード軍は今度はクウェイトに向けて進軍を開始した。そしてムバーラクを討つ様子を見せた。ムバーラクは動転してアブドルアジーズに救援を求めた。アブドルアジーズは直ちにクウェイトに向かった。ところがこれはラシードの策略であった。サウード軍がクウェイトに向かったのを確かめると、矛先をすぐにリヤードに変えて攻撃をしかけてきた。リヤードの守りは堅い。アブドルアジーズはリヤードの救助に戻る代わりに、ラシード家の本拠地シャンマル地方に現れ、奇襲をかけた。ラシードは大急ぎで軍を北へ退かざるをえなかった。

各地の住民や遊牧部族を巻き込みながら、その後もラシード軍との一進一退の戦いは繰り返し続いたが、この間にラシード家の支配する領域は少しずつ失われていき、1903年までにはカシーム地区を除くナジド中央部の大部分がサウード家の支配下に収まった。1904年にはオナイザ、ブライダのカシーム地方の町もサウード家に忠誠を誓った。もっとも、その後もカシーム地方では何度となく反乱がくり返されている。オナイザ攻略の際には、アブドルアジーズの親族の若者たちが敵の陣営に参加していた。祖父ファイサル亡きあと権力争いを起こして死んだ伯父サウードの子孫たちであった。アブドルアジーズはサウード家のこの若者たちを無条件で許した。しかし、このとき従順な態度を示したものの、彼らはその後も反逆を企てる危険な存在であった。

サウード家のリヤードにおける政権回復と急速な勢力拡大に、危機感を募らせたラシード家はオスマントルコ政府に援助を求めた。オスマントルコは、かつてラシード家が強力となったときにはこれを妨害しようとしたが、今はサウード家の巨大化を何としても阻止しなければならない…アラビアの部族民を互いに戦わせて勢力を封じなければならない…。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院