サウジアラビア歴史

近代サウディ建国の祖


第一次サウード侯国

その後もイブン・アブドルワッハーブの提唱するサラフィー運動は、ムハンマド・ビン・サウードの勢力拡大運動と車の両輪のごとき不可分の関係を保ちながら、一歩一歩アラビア半島の宗教的・政治的統一を進めていった。ムハンマド・ビン・サウードは1765年に没するが、その息子アブドルアジーズ・ビン・ムハンマドは着々と統一運動を進め、1773年にはリヤードを、ついでナジド全域を支配下に置き、1790年にはアラビア湾岸のハサー地方を征服した。

1792年、イブン・アブドルワッハーブも90歳で他界するが、その意志はサウード家によって受け継がれ、サラフィー運動の支持層は増大していった。1801年にはイラクのカルバラ−やヒジャーズのマッカで聖者崇拝や英雄崇拝の対象物たる廟や墓を破壊するほど強力な勢力に成長した。

この頃にはデルイーヤのサウード家の支配領域は広大なアラビア半島のほとんど全域に達しており、一極支配体制の不備を補うためアブドルアジーズはこれを20の州に分割、自分の忠臣から各州の知事を任命して統治する一方、各州にカーディー(裁判官)を任命し、宗教教育と民衆教育にあたらせた。

1803年、アブドルアジーズはデルイーヤのモスクで礼拝中に刺客に襲われて83歳の生涯を閉じたが、後を継いだ息子サウードのもと、サウード侯国はさらに領土を拡大し、オマーンやイェメンの大部分を併合し、マッカ、マディーナも掌中におさめた。さらにシリアやイラク方面にも積極的に進撃を開始していた。しかしながら、この侯国は長く続かなかった。疾風のごとく走りぬけ、消えていくことになる。

オスマントルコが危険に気づいたのだ。このサラフィー運動の勢力をオスマントルコ帝国は容赦できなかった。金曜日のモスクの礼拝においてもオスマントルコ皇帝の名が称えられることがなくなっていた。ヒジャーズ地方が占領され、マッカとマディーナの支配が奪われ、オスマントルコ帝国の威信は著しく傷ついてしまった。

1811年、奪われた領地を回復するためオスマントルコ帝国は臣下のエジプトの大守ムハンマド・アリーを起用し、アラビア半島のこの破竹の新勢力を徹底的に鎮圧するように命じた。ムハンマド・アリーのエジプト軍は最新の軍事技術に大砲や近代的兵器を装備し、トルコ兵やアルバニア兵の増援をうけて、サラフィー勢力の一掃に乗り出した。トルコ=エジプト軍の優れた兵器・弾薬の威力に、サラフィー勢力のサウード軍は数々の戦闘で痛手を受けた。

1814年、サウード侯国の大首長でありサラフィー運動の推進・守護者でもあるサウードが死んだ。敗退が始まった。サウード軍から離反したり、寝返る部族も多かった。ヒジャーズが奪回され、カシームが陥ち、ナジドの各地もつぎつぎと征服された。

1818年、サウード家抹殺の敵意に燃える父ムハンマド・アリーの意を体したイブラーヒームが率いる強力なエジプト軍がデルイーヤを包囲、9か月に及ぶ激戦ののち、ついにデルイーヤも陥落した。このときの首長アブドッラーはイスタンブールに送られ首を斬られた。トルコ=エジプト軍はサラフィー勢力の根絶のためサウード家一族とイブン・アブドルワッハーブの子孫を捕らえてエジプトに送り、デルイーヤの町を徹底的に破壊した。ムワッヒドゥーン(サラフィー運動に共鳴した人たち。)の部落も容赦ない破壊と殺戮を受けた。トルコ=エジプト軍はハサー地方も制圧し、アラビア湾岸の支配権を確立すると、アラビア半島をずたずたにして撤退していった。

デルイーヤは廃墟となり、ナジドの村落は荒廃した。アラビア半島統一の事実は、風に吹かれた砂のように砂漠に消えてしまった。

サウード家は壊滅的な打撃を受けた。だが、イブラーヒームはこのとき近在に難をのがれていたサウード家のひとり、トルキー・ビン・アブドッラーという人物の存在を失念していた。この人物もまた、サウード家の再興に立ち上がった不屈の英雄であった。


転載:「アブドルアジーズ王の生涯」
日本サウディアラビア協会出版














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2005年 アラブ イスラーム学院