ウマイヤ朝の歴史
 

【ウマイヤ朝のイスラーム開放の続き】
 

東方地域の開放

正統カリフ時代にペルシャとフラーサーンが開放されました。そしてウマイヤ家の人々が政権を握り、東方における開放の動きを引き続き行い、この開放を統率していたのはイラク総督でした。そしてアルワリードの時代にイラク総督のアルハッジャージュ イブン ユースフ アッサカフィーは東方開放のためにクタイバ イブン ムスリム アルバーヒリーを東北部へムハンマド イブン アルカースィム アッサカフィーを東南部へ派遣しました。

トランスオキシアナ地方の開放

ヒジュラ暦86年クタイバ イブン ムスリムはフラーサーン総督に任命されました。そしてギホン川を通過し、タハルスタン王国やハワーリズム王国ブハラやサマルカンドを含むサグド王国など、その地域の主要国を開放することが出来ました。これらの王国の開放にとどまらず、クタイバはこの地域の住民たちにイスラーム信仰と偶像崇拝を捨てることを呼びかけました。クタイバがこれらの偶像が良いことも悪いことももたらさないことを明らかにした後、これらの王国の住民たちの多くはイスラームに改宗しました。そしてクタイバは開放を続け、中国国境沿いのカシュガルの町まで到達しました。そしてクタイバと中国の間にムスリムたちへ人頭税を支払うとことで協定が結ばれました。

シンド地方の開放

イラク総督のアルハッジャージュはムハンマド イブン アルカースィム アッサカフィーをシンド開放のためにシンドへ向かわせました。ムハンマド イブン アルカースィムは20代の青年で、敬虔で人格的にも優れ、勇敢でした。ムハンマドはシーラーズへ行き、そこでアルハッジャージュによるムハンマドが必要としていた6千人の兵士からなる援軍が送られてくるのを待っていました。そしてヒジュラ暦89年シンドの国へ向かい、ダイバルの町を開放し、それから北部へと進み、その途中、幾つかの主要都市を開放しました。

そしてシンド国王ダーヒルにムハンマドが彼のもとへやってくるということが伝わると大軍を集め、イスラーム軍に対面しました。そこでダーヒルは殺害され彼の軍は敗走し、それによりシンドの首都ラホールがムスリムたちの手により陥落しました。それからイスラーム勢力はムハンマド イブン アルカースィムの指揮により北はカシミール地方境界まで前進しました。そしてムハンマド イブン アルカースィムはシンド地方のイスラーム布教を行い、土地の住民たちに善く接しました。これにより住民はイスラームに心を傾けるようになりました。そしてカリフ ウマル イブン アブドゥルアズィーズの時代にムスリムたちはこの地域の開放をさらに広大な、確実なものとしました。

みなさん、次回はウマイヤ朝衰退の原因とその終局に移りましょう。


筆者:リハーブ ザハラーン
アラブ イスラーム学院講師

 

(→バックナンバー
(→週刊アラブマガジンのトップ


 
↑UP↑

前に戻る


アラブマガジンへもどる

 

アラビア語カフェ | アラブ イスラーム学院 | サイトマップ | ヘルプ



2004年 アラブ イスラーム学院