ウマイヤ朝の歴史
 

【アブドゥルマリク イブン マルワーン】
 

彼の正式名はアブドゥルマリク イブン マルワーン イブン アルハカム イブン アビルアースといい、ヒジュラ暦26年アルマディーナに生まれました。
学問を重視する家庭に育ち、理性的で厳しく、宗教的知識に長け、その他の幅広い知識ももち、アルマディーナの法学者の一人として数えられていました。

アブドゥルマリクのカリフ就任

アブドゥルマリクはウンマ(イスラーム共同体)が政治的大混乱に見舞われた後、ヒジュラ暦65年にカリフに就任しました。その当時、反ウマイヤ朝勢力であったアルハワーリジュたちの数々の蜂起に加え、イラクとアラビア半島ではいまだイブン アッズバイルが権力を握り、同時にアルクーファではアルムフタール イブン アビー ウバイドッサカフィーが蜂起を起こしました。

このような困難な状況にもかかわらず、アブドゥルマリクはこれらの政治問題を解決し、強く新しい基礎からなる国家の柱を打ち立てました。新しく国家をひとつにまとめなおしたことから、アブドゥルマリクはウマイヤ朝の第2の建国の父とも言われています。

アブドゥルマリクはシャームからの強大な軍を用意し、イラクのムスアブ イブン アッズバイルへと進軍しました。そこでムスアブとイラクの民は敗北しアブドゥルマリクとシャームの民が勝利し、イラクを取り戻しました。その後ムスアブと彼を支えた者たちの何人かは殺害され、アブドゥルマリクはそのままアルクーファへ進み、アルクーファとアルバスラにそれぞれウマイヤ朝の知事を配置しました。

同じく彼はヒジャーズ奪還のために強大なシャームからの軍とともにアルフッジャージュ ブン ユースフ アッサカフィーを派遣しました。これはアブドゥッラーフ ブン アッズバイルに対して送られた軍で、アブドゥルマリクはアルフッジャージュにマッカの民がウマイヤ朝に服従すれば安全は保障する旨を書状に書き記しました。これはヒジュラ暦72年のことでした。

アルフッジャージュはターイフに下り、マッカを包囲しました。しかしその強大な軍の前でアブドゥッラーフ ブン アッズバイルと仲間たちはよく耐え、マッカがウマイヤ朝支配下に置かれることに抵抗しました。この抵抗は約7ヶ月続き、アブドゥッラーフ イブン アッズバイルはヒジュラ暦73年に殺害されるまでよく耐え続けました。

こうしてアルフッジャージュはマッカに入り、人々はアブドゥルマリクに忠誠を誓いました。その後アルフッジャージュはアルマディーナへと進みアルマディーナが彼に服従したことからヒジャーズ地方はウマイヤ朝支配下に入りました。

またアブドゥルマリクはアルハワーリジュたちの反乱を鎮圧し、その危険を取り除きました。

こうしてアブドゥルマリク、彼の2人の息子のアルワリードとスライマーンの時代には、ウマイヤ朝に属する地方には静けさが広まりました。

アブドゥルマリクの業績

1−

政治的反乱を制圧し国家を一つにまとめなおしました。

2− 国家のさまざまな記録書をアラビア語で書くようにしました。それまではシャームではギリシャ語で、イラクではペルシャ語で、エジプトではコプト語で公的文書は記録されていました。
3− ダマスカスに貨幣鋳造所を設け、イスラーム国家の貨幣を新しく作りました。これはアラブイスラーム金貨といわれました。
4− 各地の軍や総督、知事たちと継続的に連絡が取れるように郵便事情をさらに整備しました。

アブドゥルマリクの死

アブドゥルマリクは21年間カリフに就任していました。彼は兄弟のアブドゥルアズィーズが亡くなった後、すべてのイスラームの州からアルワリード、そしてその後スライマーンを次代カリフにするとの誓約を取り、ヒジュラ暦86年に亡くなりました。

それでは次回はカリフ アルワリードを紹介していこうと思います。



筆者:リハーブ ザハラーン
アラブ イスラーム学院講師

 

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