ウマイヤ朝の歴史
 

【ウマイヤ朝の設立】
 

週刊アラブマガジンの読者の皆さん、このシリーズは『正統カリフ』たちのあとを継いだ『ウマイヤ朝』時代について紹介していきます。歴史が証明したその時代の担い手たちと彼らの偉業について、皆さんに紹介し、また皆さんが疑問に思われているだろう点についても説明していきたいと思います。

ウマイヤ朝の設立

カリフ アリー ブン アビー ターリブの殉教後、彼を支持していたムスリムたちはアリーの息子のアルハサンに忠誠を誓いました。
しかしアルハサンは、ムスリムたちの意見をまとめるために、また無駄な血を流すことを避けるためにカリフの地位をムアーウィヤ ブン アビー スフヤーンに譲るべきだと考えました。

これはヒジュラ暦41年のことで、この年はムスリムたちの声がひとつにまとめられたこと、そしてムアーウィヤへの忠誠が誓われたことから「アルジャマーア(統一)の年」と名づけられました。

またこの国家が「ウマイヤ朝」と名づけられたのは、ムアーウィヤの正式名が「ムアーウィヤ ブン アビー スフヤーン サフル ブン ハルブ ブン ウマイヤ」だということに由来しています。


ムアーウィヤ ブン アビー スフヤーン

ムアーウィヤはクライシュ族のアブド シャムス家の出身で、預言者ムハンマドが啓示を受ける2年前に生まれ、マッカの父アブー スフヤーンのもとで教育を受けました。
そしてムアーウィヤは23歳の時、つまりヒジュラ暦8年のマッカ解放の年に、父とともにイスラームに改宗し、預言者とともにフナインの戦いに参加しました。
またムアーウィヤは啓示を記録する預言者の書記たちの一人でもありました。

アブー バクルの時代、ムアーウィヤは彼の兄弟ヤズィードが指揮をとっていたシャーム地方解放軍の援軍の指揮官としてシャームに派遣されました。
ヤズィードの死後、ムアーウィヤはシャーム解放軍の指揮を引き継ぎました。
アブー バクルはムアーウィヤをダマスカス総督に任命し、二代目カリフのウマルも引き続きムアーウィヤをダマスカス総督としました。

三代目カリフ ウスマーンの時代にはシャーム地方のすべての領土が一括りとなり、シャーム地方すべて(アルメニアや現シリア・イラク国境付近)がムアーウィヤの支配下に収まりました。そしてムアーウィヤは20年間この総督の地位にあり続けました。


ムアーウィヤのカリフ就任

ムアーウィヤの時代はそれまで相違していたムスリムたちの意見がまとまったということで善き時代のひとつに数えられています。またウマイヤ朝の首都はダマスカスでした。
ムアーウィヤはふさわしい知事や役人たちを人々のために選び、対外的にはローマに対抗するためにムスリム軍を派遣しました。

ムアーウィヤは次代カリフとして自分の息子ヤズィードを任命しましたが、これはアルムギーラ ブン シュウバによるカリフ選任の仕方の提案によるものでした。ムアーウィヤは最初にこの方法を取り入れた人でした。

ムアーウィヤには彼が背負った重い責任を果たすだけの器量が備わっていました。
彼の政治的手腕、理性、英知、アラビア語能力は優れており、その賢さと寛大はだれもが認めるところでした。彼は寛大なところではとことん寛大で、また厳しいところでは非常に厳しい人でした。

ムアーウィヤは次のように言いました。
「鞭で済むのなら私は剣を使わない。舌で済むのなら鞭を使わない。私と人々の間にある髪の毛一本は決して切れない。彼らが引っ張れば私がそれを弛め、彼らが弛めれば私がそれを引っ張るのだから。」
「私が最も好むものは怒りを抑えることだ。」

また詩人アルアフタルはムアーウィヤを褒め称えて言いました。
『私の両目は公正な指導者を見上げる  
 彼はアッラーから畏怖を与えられ、人々に益をもたらす
 彼をその目に捕らえれば       
 寛大さと力強さを見るだろう」』

ムアーウィヤは自分をアブー バクルやウマルと比べて言いました。
「アブー バクルは現世を望まず、現世も彼を望まなかった。ウマルは現世は彼を望んだが彼は望まなかった。私たちは富の中を転がっているようである。」

次回はカリフ ムアーウィヤの業績にスポットを当ててみましょう。
それでは皆さんにまたお会いできることを楽しみにしています…


筆者:リハーブ ザハラーン
アラブ イスラーム学院講師

 

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