読者の声
 

【ユダヤ教徒、キリスト教徒、そして国際社会へ】
 

ユダヤ教、キリスト教、イスラームの三つの宗教は、いずれもエルサレムを聖地とし、唯一神がこの私たちの住む世界を創造したのだと教えており、姉妹宗教と言われている。イエスがタナハ(旧約聖書)に述べられている救世主であると認めない人々がユダヤ教徒、イエスを救世主であると信じ、キリスト以降の預言者を認めない人々がキリスト教徒、そしてイエスを含め聖書に述べられている預言者を全て認め、さらにイスラームの預言者ムハンマドを認める人々がイスラーム教徒なのだという。そしてユダヤ教徒は救世主、キリスト教徒、イスラーム教徒はイエスが最後の審判の日に現れると信じている。

イスラーム教徒をはじめ多くの人々は、この三つの宗教の唯一神は同じ神であると考えている。しかしながら、ユダヤ教徒やキリスト教徒の中には、自分たちの信ずる唯一神とイスラームの唯一神は異なっていると主張する人たちがいる。そのことについて、果して万人が納得できるような証明はなされているのだろうか?もしそうでないのなら、何故そのように主張することが出来るのだろう?自分たちの信ずる神と同じ神である可能性のあるイスラームの唯一神を何故否定できるのだろう?もしイスラーム教徒が考えるように同一の神であるならば、先の人々の主張は、自らの信ずる唯一神への冒涜に他ならない。確たる証明もなくそのように主張する人々は、唯一神への冒涜をおそれない人々である。即ち唯一神を信じていると称しながら、実は信じていない人々である。あるいは、自分たちの主張の意味するところに気づかない思慮の浅い人々である。真に唯一神を信じ畏れる者ならば、確たる証明もなくイスラームを否定できないはずであり、イスラーム世界に啓示された唯一神からのメッセージに対してもっと謙虚に耳を傾けるはずである。ユダヤ教徒、キリスト教徒は、自分たちに与えられた啓示の世界に頑なに閉じこもるのではなく、自分たちとは異なった人々に与えられたかもしれない啓示に対しても、もっと目を向ける必要があるのではないだろうか?それによって自分たちに与えられた唯一神からのメッセージも又、異なったふうに響いてくるのではないだろうか?およそ唯一神への信仰を自負する者にとって、唯一神の言葉の真の意味を理解することは極めて重要であり、全てはその正しい理解から始まるのではないか?

有史以来、ユダヤ民族の歴史は、差別され迫害された悲惨なものであったという。その最も記憶に新しいものが、第2次世界大戦に於けるホロコーストであろう。そしてその後、ユダヤ人たちは、神に与えられた約束の地であるとしてパレスチナの地にイスラエルを建国した。その結果、多くのパレスチナ人は難民となり、半世紀以上もの間苦難の生活を強いられている。このイスラエルの建国を、イスラーム世界の人々は、イスラームの地への異教徒の侵略であると考えている。建国以来イスラエルは、パレスチナ側の反発を武力で押さえ込み、版図を広げ、そして現在、自らの安全の為として分離壁を築きパレスチナ人の生活を一層苛酷な状態へと追い込んでいる。歴史の中で、長い間被害者であったユダヤ人が、イスラエルの建国によって、今、加害者に立場を変えてしまったことに対し、多くのユダヤ人はどう考えているのだろうか?

唯一神が、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラーム教徒に啓示した言葉には矛盾があるのだろうか?ユダヤ教徒にはパレスチナの地を約束し、一方で、イスラーム教徒には侵略者を追い払えと説く。果して唯一神は、この地での暴力の応酬を望んでいたのだろうか?

かつて、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラーム教徒はパレスチナの地で平和に暮らしていたという。イスラエルの建国(ユダヤ人の移住)が、その地に住むパレスチナ人を尊重し、その生活に十分配慮するものであったなら、同じパレスチナの地で共存共栄を目指すものであったなら、事態は又異なったものになっていたのではないだろうか?ユダヤ人をはじめとする多くの移民たちの力を得てアメリカが豊かな国になっていったように、ユダヤ人の移住によってパレスチナ人も又豊かになることが出来たなら、パレスチナ人はユダヤ人を大歓迎したのではないだろうか?ユダヤ人の平和で安全な暮らしの為に、果してイスラエルという国境は必要だったのだろうか?宇宙から見た地球には国境線などは見えないという。国境とは、人間が人間の都合でつくり出したものであり、時代と共に大きく変化してきたものである。そして今、地球上に住む多くの人々は既存の国境を超え、その活動範囲を大幅に広げている。唯一神がユダヤ人に約束したのは、パレスチナ人の犠牲の上に成り立つユダヤ人の国家ではなく、誰をも犠牲にしないやり方、即ち、パレスチナ人とユダヤ人が対等の権利を持ち、お互いを尊重し、平和に富を分かち合える社会ではなかったのだろうか?

一方、キリスト教が人々の生活に多大な影響力を持っていた暗黒時代と呼ばれる中世を経て、近代ヨーロッパに於ける文化の発展はめざましく、ヨーロッパ発の人権思想、民主主義、資本主義と共産主義経済、そして急速に発達する科学技術等、世界の多くの国々はその文化を学び取り入れてきた。そして一般庶民の生活は向上し、人々はヨーロッパ発の文化により多大な恩恵を受け今日に至っている。しかしながら、この一部の人々の便利で豊かな生活は地球環境を汚染、破壊し、科学技術の発達は、皮肉にも非人道的な大量殺人兵器を生み出し、政治を動かすはずの人々の心は腐敗し、人々は政治に無気力になり、その結果、民主主義も又腐敗し機能不全に陥っていく。理想の経済社会を求めたはずの共産主義も挫折し、そして資本主義経済も歯止めのない利益追求に走る余り、様々な問題を抱え込み、際限のない弱肉強食の世界をつくり出しつつある。近代以降、唯一神の手を離れて人間が独自につくり出してきたヨーロッパ発の優れた文化も、今、色々な面で行き詰まりを見せている。問題となっているのは、素晴らしい制度や技術を生かすはずの人間の心である。

振り返れば、中世キリスト教社会の腐敗とルネッサンス、そしてその後の啓蒙思想、科学技術の発達、進化論の普及と共にキリスト教社会に於ける唯一神の影響力は減少し、その教えも、個々人の心の中の問題として政治の世界から遠ざけられてきた。しかしながら、中世ヨーロッパを暗黒時代にしてしまった責任はイエスの教えにあったのではなく、それを誤解し、あるいは自分たちに都合の良いように解釈し、キリスト教の権威を利用してしまった人間の側にあったのではなかったか?そして生物進化の問題に携わる現代の生物学者達は、これまで考えられていたように種々の生物の進化の頂点に立つのが人類であると考えるのではなく、現在地球上で繁栄している生物種全てが進化の頂点にあるのだと考えているようである。そして、それらの生物と人間との決定的な違いは、人間のみがこの世界のありようを認識することが出来るということにあるのだという。

“人類が手にした最高の文化である”と欧米を中心とする世界の人々が信じているヨーロッパ発の文化が行き詰まりをみせる今日、忘れ去られていた唯一神の教えが再び思い出される時ではないだろうか? “イスラエルに住むユダヤ人はパレスチナ人を愛しているか?” “一方の頬を打たれたアメリカは他方の頬を差し出すことが出来たか?”何故頬を打たれたのかその理由を謙虚に省みることが出来たか? 多くの人々は言うに違いない。「現実を見ろ!そんな事など出来るはずがない。テロリストの言いなりになるだけではないか!」
しかしながら、唯一神への信仰を自負する人々がイエスの教えをこのように軽んじて良いのだろうか?このように主張する人々は本当に唯一神を信じていると言えるのだろうか?イエスの教えとは、キリスト教徒がそれに向かって努力するべき目標ではなかったのか?そしてイエスを認めないユダヤ教徒にとっても、彼の教えに学ぶことが多々あるのではないか?現実を重視する余り、それは実現不可能な理想に過ぎないとして捨て去った後に、政治は何を目指したら良いのだろうか?追い求めるべき理想を失った人間社会は一体どこに向かえば良いというのだろうか?
 
9・11テロの犠牲者の遺族が、アフガンやイラクでの犠牲者の遺族を思い戦争反対を訴える。イスラエルの若い兵士達が、無辜のパレスチナ人を傷つけることに良心の呵責を感じ兵役を拒否する。こんな風に考えることの出来る人々が力を合わせれば、戦争のない平和な社会を実現することができるだろう。他者を思いやり、尊重し、共に生きようと願う人々こそ唯一神の示す“天国”を実現できる人々であり、そこに住む資格のある人々ではないだろうか?一方、他者の犠牲の上に武力で自分たちだけの平和と安全を得ようと考える人々には、永遠に平和が訪れることはないだろう。パレスチナ、イラクをはじめ世界中で見られる暴力の応酬がそれを物語ってはいないだろうか?唯一神の示す“地獄”とはこういう世界のことではないだろうか?

思えば、ヨーロッパの国々、スペイン、イギリス、そして列強といわれた国々がその強大な武力をもって世界中を侵略し、その富を奪い豊かになっていったことは歴史の示すところである。ユダヤ人の大量虐殺が行われたのも又この地であった。彼らは又、インディアンやアボリジニーを駆逐してその土地を奪い、アメリカやオーストラリアを建国した。そして欧米を中心とする世界でもひときわ強力になったアメリカが、今、イスラーム世界を欧米化しようと試み、“国際社会”も又それを支持している。 テロは追いつめられたイスラーム世界の叫びであり、怒りである。即ち唯一神の怒りである。アメリカの傲慢な態度が世界中の多くの人々に嫌われているように、唯一神の怒りも又、神の名を口にしつつ神を畏れぬ傲慢な人々に対する怒りであるに違いない。ユダヤ教徒、キリスト教徒はこの唯一神の怒りを真摯に受けとめなければならないのではないだろうか?そしてもしも唯一神など存在しないと主張するならば、あるいは“政教分離”の原則を主張するのであるならば、“イスラエルの建国”とは一体何であったのか?自らの主張を否定し、しかも、その後50年以上にも及ぶ悲惨なパレスチナ紛争の火種となる、極めて宗教的な“イスラエルの建国”を認めてしまった“国際社会”の矛盾と責任は厳しく問われることになるだろう。

現在、“国際社会”では、強大な武力を持った大国の意向が尊重され、大国とその友好国の非人道的殺人兵器保有と開発は黙認され、大国の意にそわない小国の僅かな武器所有と開発ばかりが問題にされている。私たちの国際社会はこんなに歪んだものでよいのだろうか?不公平がまかり通ったもので良いのだろうか?天地創造の唯一神はこんな見苦しい世界を容認してはおかないだろう。……もしも本当に唯一神が存在するならば……。

筆者:堀田史子

 

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