巡礼物語
 

【現代イスラームの強靭性 — 巡礼で考えたこと】
日章旗を持つ
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一.篤信振り寸描

 現地で様々な信者模様に出会った。それらを通して一番印象深かったのは、一 言で言って、いかにイスラーム信仰が強靭であるかということであった。

 規定に従い、慣れないサンダル履きで三日間、毎日十乃至二十キロほどは歩い たし、勤行の中には寒い夜、テントもないところでの野営もあり、全体としてか なりの苦行である。しかしその肉体的な苦痛は、信心の熱気に吹き飛ばされてい るというのが、周囲の人全員の風情であった。むしろ嬉々としているのである。

 カアバの周りを回る一歩一歩は過去の罪を消してくれるし、アラファの日は アッラーが直覧されている、壁に石を投げつけて自分の心の中の悪魔退治も出来 る。有難いこと尽くめの儀礼が続くから、ますます熱が入る。

 高揚の余り失神する人もいる。巡礼中に他界すると殉教死としてそのまま天国 行きだともされている。行進は押しつ押されつの人の波になるが、一度として 人々が言い争っているシーンは見かけなかった。これも驚嘆だ。巡礼中の心懸け の一つに、「猥褻な行いを慎み、論争をしないこと」という一節がクルアーンに あるが、それが功を奏しているのであろう。飛行場の到着ロビー内では、繰り返 しこの文言を放送していた。

 アジアありアフリカあり、人種などを超えての篤い信心にはただただ圧倒され た。

二、強さの原因

 世界各地から押し寄せる巡礼者の行事は、過去何世紀もの間、毎年繰り返され てきている。イスラームのこのような強靭性は一体どこから来るのであろうか。 そしてそのような強さは、他の世界宗教を遥かに上回っているのではないだろう か。こういった問い掛けかけが、自然と心をよぎらざるを得なかった。

 巡礼中に最も感銘を受けた場面は、信仰の中枢であるアッラーと信者一人一人 が、直接に対峙しているシーンである。アラファの日の祈りは、テントに大勢で たむろしていても、結局自分一人で行う勤行である。近くの荒野にぽつねんと 立ったり座ったりしながら、祈り続ける人もいる。そこにはイスラームの草創期 に噴出されたであろう様な、はつらつとした緊張感がみなぎっていた。

 そんな鮮烈な場面を眼前にするにつけ、自然と思い起こされてきた言葉があっ た。それは現代イスラームに関して多大な貢献をしたエジプトの穏健派の思想 家、アフマド・アミーン(1886-1954)の残したものである。その言葉 を纏めると次のようになる。

「人は自ずと真、善、美の三大価値を希求するが、それらに対応して科学、倫 理、そして芸術が発達してきた。しかし宗教はそれら凡てを超越し、包摂する。

 倫理は宗教の教えの部分々々に論理的思考が働いて育まれた果実であるが、宗 教に取って代わるものではない。科学は、いかに、という方法論への回答は与え うるが、物事や人生の本質は何か、その動きや変遷が何故生じているのか、そし て最終的には宇宙の第一原因に関する回答は提供し得ない。

 他方宗教は、真、善、美を包摂するとしても、独自の固有な役割がある。その 中軸となるのは、天啓と霊操により研ぎ澄まされた直覚の働きで、内的な世界に 達すること、言い換えれば最高峰の威力に最も崇高な感覚で触れることにあるの だ。

 この瞬間は稲妻のように人に訪れる。そして誰にも科学を理解し美を味わうこ とが出来るように、人なら誰にでもこの稲妻を体験できる能力は賦与されてい る。しかし直覚力も芸術と同様、人により大小、強弱、様々な違いが見出され る。」


 以上のようにまとめつつ筆者が注目したいのは、ここでどのようにアッラーと 信者間の関係が捉えられているかという点である。霊的な直覚力は誰にでも備 わっている反面、それは霊操で磨きをかけなければならない、換言すれば、「最 高峰の威力」であるアッラーとの対峙は、人が益々研鑽する過程で達成されるも のであり、それを怠る者は直覚の機会も能力も減退してしまうということだ。

 ここに恒常的な修練の必要性と、それが欠ける場合の神喪失の恐怖という緊張 関係が描かれている。

 アミーンはさらに言う。

「信仰における成功者には、アッラーとの相互的な愛の関係が打ち立てられる。 それはアッラーからの愛であり、同時にアッラーに対する愛である。これが信心 で確立されるもっとも甘美な心のあり方である。そしてそれは人類愛にも広が る。かくして宗教信仰は人の生涯の灯火となり、人を正しく直なる道に導くので ある」と。


 かくしてアッラーは畏怖の対象であると同時に、敬愛の対象でもあるのだ。一 方に偏らず、両側面がバランスよく張り詰めた緊張関係の中に、信者は位置づけ られる。

 最後に、アッラーは存在全体を差配する第一原因であり最後の審判の主宰者と して、信者の行い凡てを知り尽くしているお方である。ここにも緊迫感が息づい ている。

三.キリスト教・仏教との対比

 本稿の目的は、巡礼の現場で実見したイスラームの強さはただならぬものであ ることを記し、伝えるという点にある。ただそのイスラームの強靭性を浮き彫り にするため、キリスト教及び仏教のケースと並べて対比することも許されるかと 思う。肝心の点は、信者である人間と、信仰の対象である神・仏―絶対者であり 真実にして無限―との間の、心的な関係と距離の違いにある。

 まずキリスト教について言えば、近代史を貫くものは神への攻撃である。批 判、糾弾、そして正面からの否定も含まれる。多少例を引くならば、ニーチェは 神の死を宣告した。ダーウィンは進化論により、神の創造を根底から覆した。フ ロイドの心理学は、人の行動を決めるのは潜在意識であるとして,神の意思によ る決定をなきものにした。そしてマルクスは宗教そのものを、社会の阿片と決め 付けて躊躇はなかった。

 科学を発達させる動機の背景には、常に神の力に疑問を呈し、その存在を否定 したいという勢いが働いてきたことは広く知られている。すなわち神とその支配 に対する闘争が、一貫したパトスであった。

 科学者の研究は人間をいわば実験室のフラスコの中に置くようにして進められ た。すなわち人の姿を細胞単位に分断して憚りなく、したがって具象的でなく分 断できない精神や霊感といったものは、無視されるか正当な真価が評価されなく なった。

 連綿と続く神否定にたじろいだキリスト教としては、宗教の王道であるべき神 との直接的な対峙よりは、イエス敬愛の強調と倫理・道徳の教説に比重を移す結 果を招いたのである。こうして人の生涯から神は迂遠になり、キリスト教は人生 の中核部分からはずされることとなってしまった。

 最近注目されている神経神学では、宗教信仰を脳神経の働きから解明しようと するのであるが、その内容は神経研究ではあっても、神学研究には踏み込めてい ないという批判が聞かれる。この批判は、従来の科学的な基本姿勢から来る限界 を突いているとも言えよう。

 一方仏教について本誌を憚らず言うとすれば、キリスト教とはちょうど反対の 方向の趨勢が見られたのではないだろうか。禅宗の修行は厳しいとしても、日本 では特に十四世紀以降、座禅の姿はそのままで仏の一部であり、またそれが仏の 姿になっているとする一派の考えも広まった。浄土教では称名が重視され、念仏 を唱えればそのまま救われると教えられる。これら双方に共通なのは、仏への心 的な近しさであり親しみやすさである。

 人は亡くなると、全員仏と呼ばれるに至った。結局誰でも、生前どのようであ れ、仏の慈悲に恵まれるという安心感は大きな包容力であるが、同時に悪くする と安易に流れ信心の弛緩も招く結果が排除されない。そして信者側から絶対者と 向き合う機会を激しく求めることは、やがて消えうせても不思議はない。そうな ると、信仰は人の生と宇宙の全存在に面と向かい合う、直覚力を通した真実の実 体験であるという王道からは外れることになる。

 以上かいつまんだ形ではあるが、現代におけるキリスト教と仏教の両者には、 絶対者との関係において、適切な緊張関係が失われたという共通の流れがあるこ とを指摘したい。一方では敵対的となり、他方では余りに安易になったのではな いだろうか。

四、最後に

 世界の主要な宗教について信者と絶対者の関係を主軸に置いて比較することに より、イスラームが現代世界で発揮している格別の強靭性の一因に光が当てられ たかと考える。アラファの荒野は、イスラームの信者が一人アッラーに向かい合 う格別の緊張感を改めて示してくれたのであった。

 なお多くのムスリムに同様の質問をすれば、イスラームでは聖職者を作らない ので、信者一人一人の責務が大きく意識も高いことを上げる人もいるであろう。 あるいはもっと端的に、イスラームこそが真実の教えだからだ、とだけ答える向 きもあろう。

 世界のイスラームの信者数は、現在約十三億人とされ、後四半世紀もすれば十 五億を越えて、四人に一人はムスリムという世界になる勢いである。端的に言っ て戦後日本社会の無宗教体質とは、世界は逆方向に突き進みつつあるのである。

 そんな中、慣習などの付随物を除けば、どの宗教も構造的には同一であるとす る宗教多元主義の立場が唱導されている。水の色は入れる容器の色である、と言 うのだ。その提唱者として知られるイギリス人宗教学者ジョン・ヒックは次のよ うに言う。

「われわれは真理(注:神)を柔和(でさまざま)な形で体験できるので、人間 の潜在力はいずれ満たされ実現されるであろうと信じることが出来るし、また (その段階以前の)今日のあり方は、遥かに長い道のりの一過程に過ぎないとい うことについて、われわれは確信を持つものである。」

「人間の潜在力はいずれ満たされ実現される」のであろうか。

 いずれにしても当面は、世界の宗教信仰の動向から益々目が離せないことは間 違いないと言えよう。


筆者:アミーン 水谷
アラブ イスラーム学院研究者

(2007年12月25日更新)

                

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