心の走馬灯
 

【イスラーム信仰の内実 その2】
 

前回の続きとして、最後に極心ですが、信仰の頂点を極める段階です。イスラームにおいては僧侶階層もなく、信仰の深浅にレベルの違いがあるという発想は、元来はっきりしませんでした。初期によく争われたのは、内心でアッラーを否定する者をどう考えるか、そして罪を犯した者も信徒でありうるのかといったかたちの議論でした。つまり信徒であるのかないのかが、共同体の一員として認められるかどうかという深刻な問題として取りざたされたのです。

しかし時間の経過と共に、そして信仰に熱が入れば入るほど、信仰のレベルが争われることとなるのは、むしろ自然でしょう。いわゆるイスラームの神秘主義、スーフィズムにおいては、この段階論が華やかに行われ、各段階を示す称号が与えられるに至ったわけです。

これほど顕在的ではなくても、誰しも一層レベルを高めたい、そして頂点を極めたいというくらいの願望は持つものでしょう。この究極感をどのように表現すべきか、定義があるわけではありませんが、一つの表し方としては次のようにも言われます。

即ち、万物が一体、一元であり、そして神の存在を万物に認めることができるようになることである、と。この一元界こそは、神の本質であるとされ、神の属性である愛に信徒が包まれることこそは、至福であるとされるのです。

我々は入信と確信の各段階はそれなりに了解されたとしても、この最後の究極感だけは急に概念的に聞こえ、前二者とかなりのギャップを感じるかもしれません。しかしこの種のもどかしさを乗り越えたいのが、本稿の趣旨でもあります。そこでこのギャップを出来るだけ克服するために、今度は信心を時系列という縦の線ではなくて、その構造をかたち作る各要素という横の線に並べ直して観察してみましょう。

3、信心の構成要素

まずは霊感(イルハーム)と天啓あるいは啓示(ワハイ)という用語について。信徒が信心を得られるのは、霊感によるとされます。音感で音楽を、そして色感で美術を楽しむとすれば、信仰に導くものを霊感というのでしょう。しかしその定義は様々に行われています。人の持つ能力の一つとして歴然と存在することは間違いないが、その正体は何か。最近の神経神学が躍起になって追いかけている課題ですが、結果は出ていません。いずれにしても、この力は人から発せられ、この世ならぬものに達すると想定されるパワーなのです。

啓示は神から人へ向かって発せられるものです。これに至っては霊感以上に定義は困難でしょう。なぜなら、神の声としての啓示内容の範囲は、森羅万象凡ての事象を包み込むものであり、また精神的、物的な両面を含み、更に様々な人間のあらゆる精神的必要性を満たすものでなければならないからです。

定義のはっきりしない用語を並べても、やはり当初のギャップは残ると言われればその通りかもしれません。しかしイスラームではこのように論じられているということをまず知ったうえで、次に信仰とは、そもそも言葉の表現力や論理の積み上げを超えたものが内実であるという事実を、改めて直視したいのです。貧者に恵みたいという人情を感じるのが普通であるとしても、信徒にとっては、それは神との関係で義務であるということになると、それは通常の価値観が昇華された別世界になります。そこに到達するには論理を超えた飛躍があり、この飛躍を可能にしてくれるのが霊感と称されるものであると理解するのです。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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