オスマン帝国の歴史
 

【アブドルハミード2世】



 スルタン、アブドルハミード(アブデュルハミト)2世は、ヒジュラ暦 1258年(西暦1842年)に生まれ、イスラームのハリーファ(カリフ)の 家で育ちました。

 彼はアラビア語とペルシャ語を学び、文学や詩歌、歴史、音楽、軍事学、政治 についての書籍を数多く勉強しました。また彼は木工細工を愛し、多くの時間を その作業に費やしました。今でもその作品の一部が博物館に残されています。

 アブドルハミード2世は即位後、統治において良好なスタートを切りました。 そしてそれは、彼のイスラームとその教えへの誇りを示すものでした。制憲委員 会を通して制定された、人民の平等を保障する憲法は、彼がその治世において初 めて定めたものでした。また彼は裁判の自由を定め、イスラームのシステムに よってそれが実践されるよう命じました。彼の時代にはイスラームは法律や憲法 の法源であり続けました。

 アブドルハミード2世は学者の権利を熟知し、彼らとの協議なしではどんな決 定も下すことはなく、熱心に彼らの意見に耳を傾けました。
そして彼は改革のために憲法を制定し、それによって以前のオスマン帝国の悪癖 を監督しました。彼は改革の必要性を自覚し、人々にそれを呼びかけたのです。 しかしこの憲法は僅か1年しか続かず、やがて彼はこの憲法の施行を延滞したの でした。

 アブドルハミード2世は内政改革も行いました。彼は、オスマン帝国を獲得し ようと狙う西洋の植民地支配主義に立ち向かうため、イスラーム軍の統一を手が け、イスラーム諸国の連帯をスローガンに掲げて、それをハリーファ国家政策の 第一義としました。

 それで、中国、インド、アフリカのムスリム同胞間の関係を強化すべく支援 し、彼はそのスローガンの中に、国内外における彼と国家の周辺勢力を統一する 手立てを見出していたのです。そしてその目的を実現するために、高位にあるさ まざまな人物や運動家たちに援助を求めたのでした。

 アブドルハミード2世は数々の大学や学校を設立し、「ダール・アル=フヌー ン(学芸の館)」と呼ばれたイスタンブール大学を設立しました。そして電通信 の使用によって国内の各地域間を結び、また潜水艦を造って軍備の充実に力を尽 くしました。

 しかし、彼の最大の文明的プロジェクトはヒジャーズ鉄道の敷設でした。それ はムスリムのマッカ巡礼への道を容易にするためのものでした。このプロジェク トは、40日もかかるキャラバン隊での旅に代わるもので、鉄道によって巡礼へ の旅にかかる時間はわずか4日間に短縮されるのです。アブドルハミード2世が 全ムスリムに寄進を呼びかける公布を出して以来、この巨大プロジェクトはムス リムの宗教的熱意を生み出しました。

 アブドルハミード2世が巨額な寄進により、自ら進んで寄進者リストの冒頭を 飾ると、インドや中国やその他の地域のムスリムもそのプロジェクトをムスリム 社会全体のものとみなし、次々と追従したのです。こうしてムスリムの熱意と多 くの人々の勤労の末、8年後のヒジュラ暦1326年ラジャブ月(西暦1908 年8月)には、初めての汽車が聖マディーナへ到着したのでした。

 ここで、アブドルハミード2世のユダヤ人に対する立場についてお話しましょ う。

 ユダヤ人たちはパレスチナ(エルサレム)でのユダヤ人国家建国を認めさせよ うとして、指導者ヘルツルを通じてさまざまな手段でアブドルハミード2世の気 を引こうとしました。彼らは、オスマン帝国に毎年大きな金額を支払うことを申 し出、加えて、アブドルハミード2世個人へも巨額の金を提示したのです。それ は、それによってパレスチナへのユダヤ人移住と居住を認める決定を彼に出させ るためでした。

 しかしその時、アブドルハミード2世は永遠に歴史に永遠に刻まれるこのよう な言葉を残しています:

「私は自分の国家のたとえ片手分ほどの土地も譲り渡すつもりはありません。そ れは私のものではなく、自らの血をその地に与えてきた私の国民のものなので す。ですから、ユダヤ人たちには富を彼らの元に留めておかせなさい。

彼らは、私の死体が切り開かれない限り、パレスチナの地を手にすることはでき ないでしょう。そしてもしそのような時が来たら、彼らはいかなる代償も払わず にパレスチナを手にするでしょう。しかし私が生きている限りは不可能です。」

 それでもユダヤ人の陰謀は続き、ヘルツルはスルタンに新たな誘いの手をかけ てきました。オスマン帝国は当時、ヨーロッパ諸国に対して多額の負債を抱えて いたので、彼らがその負債を肩代わりし、その代償として自分たちの目的を実現 しようというのです。しかしスルタンは確固たる意志で自分の立場を貫き、この ように言いました。

「負債があることは恥ずべきことではありませんが、ユダヤ人に国土を売り渡す ことは恥ずべきことです。ですからユダヤ人たちには富を彼らの元に留めておか せなさい。オスマン帝国は、ムスリムの敵の金で建てられた要塞の中で身を護る ことはできないのです。」

 しかし、ユダヤ人たちの陰謀はそれに留まらず、1902年ヘルツルは、パレ スチナにヘブライ大学を設立する許可をスルタンに求めました。その大学ではシ オニストたちが教鞭を取ることになるのです。そこでスルタンはその申し出を拒 みました。

 彼は、その大学が占領の足がかりになることを知っていたからでした。こうし てアブドルハミード2世はユダヤ人のすべての申し出を断り、彼らからの贈与を 受け取らなかったのでした。

 アブドルハミード2世はその記録の中で、この取り決めに署名しなかった理由 をこのように述べています:

「私たちがこれに署名することは、イスラームにおける兄弟の死を決定すること なのである。」

 ここにきてヘルツルは、パレスチナにおけるユダヤ人の希望を叶える望みを失 いました。彼は、アブドルハミード2世が統治者の座にいる限り、ユダヤ人は約 束の地パレスチナに入れないのだ、と確信したのです。そのためユダヤ人は、ア ブドルハミード2世に対抗するためにヨーロッパやロシアと共謀することにしま した。

 そしてやがてオスマン帝国の国境地帯で反乱が起き、ロシアはオスマン帝国に 対して宣戦布告をしたのです。するとヨーロッパはオスマン帝国と結んだ条約を 翻し、反アブドルハミード2世の戦いにおいてロシアに加担したのでした。

 また、同じ年にティクリートのキリスト教徒たちがローマ教皇の後押しで反乱 を起こし、スルタンは彼のために祈るムスリムたちの心を背にして戦いました。 その時、オスマン帝国軍は敗北したのですが、その指揮官も兵士たちも、敵軍の ヨーロッパ人たちが認めるほど、みな大変勇敢に戦いました。

 ヨーロッパ諸国にとって、アブドルハミード2世は望まれない人物でした。彼 はその手に何百万人と言うキリスト教徒たちを有し、またムスリムたちのハリー ファという地位にあって、ヨーロッパ諸国にいるムスリムをもみな精神的に支配 していたからです。

 どんな大国であろうとも、アブドルハミード2世の支配下にあるヨーロッパ、 あるいはバルカン半島のオスマン帝国を分割することは不可能でした。そのた め、アブドルハミード2世を没落させるという考えが、ロンドンやパリで広がっ ていったのです。

 アブドルハミード2世の政策の独自性は、イスラーム諸国の連帯や、ヒジャー ズ鉄道とバグダード鉄道敷設に関して示されました。

 ドイツ資本によるバグダード鉄道敷設の成功は、豊富な石油資源が眠るバスラ 湾地方へ食い込もうとする西洋諸国の競争リストにドイツが参入することを可能 にしました。それによって英国は遠ざけられ、ドイツが特権を有した形で鉄道事 業は守られました。そしてそれは英国やロシアの不安を煽ることになり、ヨー ロッパ軍を退かせる知恵を持ったこのハリーファを陥れなければならない、とい うヨーロッパ諸国の決意を生んだのでした。

 また当時、世界のシオニストたちがパレスチナにユダヤ人国家を建国する計画 を遅らせていた主な要因は、アブドルハミード2世の堅固な意志でした。そのた め、ユダヤ人はアブドルハミード2世をその在位中に凋落させ、歴史的にその名 を落とそうと暗躍しました。

 彼らはアブドルハミード2世をそのスルタン位から引き摺り下ろすために動 き、マスメディアによって彼を征し、彼の私生活を咎め立てて、彼と家族の暮ら しぶりを公にしました。

 その後彼らは、のちに軍事革命を起こした「統一と進歩委員会」の設立に加わ りました。「統一と進歩委員会」は、1908年から1909年までの一年間に わたって軍事革命を起こし、その後、アブドルハミード2世をハリーファの座か ら退かせることに成功したのです。

 こうしてアブドルハミード2世は、ヒジュラ暦1327年ラビーウ・アーヒル 月6日(西暦1909年4月27日)、スルタンの座を兄弟のモハンマド・ラ シャードに譲り渡しました。

 そして彼は、私有財産をすべて取り上げられたのち、侮辱的な方法で38人の 家臣たちとサロニカへ送られ、ユダヤ人に従属するその都市で、ユダヤ人所有の 宮殿に幽閉されました。それからアブドルハミード2世は、厳しい監視の下、サ ロニカ宮殿でつらい年月を過ごしました。新聞を読むことすら彼には許されませ んでした。

 こうしてアブドルハミード2世は、オスマン帝国を34年間統治したのちに、 主にまみえるまで異国で暮らし、ヒジュラ暦1336年ラビーウ・アル=アーヒ ル月28日(西暦1918年2月10日)に、76歳で亡くなりました。彼の葬 儀には多くのムスリムが参列し、また多くの詩人たちが哀しみの詩を詠みまし た。

 それでは次回は、オスマン帝国文明についてお話しましょう。



筆者:リハーブ・ザハラーン

(2008年4月28日更新)

                

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