オスマン帝国の歴史
 

【コンスタンティノープル】



親愛なる読者の皆様:

 今回は、由緒ある古都、コンスタンティノープルについてお話しましょう。 アハマド・シャラビー博士は著書「イスラーム史とイスラーム文明」の中でこの ように述べています。

 ローマは、皇帝コンスタンティヌス1世(在位306年〜337年)の時代ま でローマ帝国の首都でした。しかし、330年にコンスタンティヌス1世はボス ポラス海峡沿岸の都市ビザンティオンを帝国の首都に定めて自らの名をつけたた め、同地は「コンスタンティノープル」として知られるようになりました。

 そしてその名は、オスマン帝国が同地を解放し、イスラームの地、という意味の「イスラーム・ブール」という名をつけるまで続きました。しかし「イスラー ム・ブール」はやがて「イスタンブール」という呼び名へと変わっていき、同地 はその名で知られるようになったのです。

 395年にローマ帝国が2つに分裂した際、コンスタンティノープルは東ロー マ帝国(ビザンツ帝国)の首都に留まり、ローマは西ローマ帝国の帰属となりま した。

 西ローマ帝国はやがてゴート族の手に落ちましたが、その後、西方教会(ロー マ教会/ローマ・カトリック教会)が自らの行政的役割と諸王への権威を宣言 し、その権力が顕在化するようになりました。

 一方の東ローマ帝国はアラブ勢力を前にして後退し、アラブ民族は東ローマ帝 国からシリア、パレスチナ、エジプト、北アフリカを解放しました。それに加 え、東ローマ帝国の衰退には数々の要因がありました。その主なものは次の通り です:

  • 第4次十字軍遠征によってコンスタンティノープルが攻撃され、60年にわ たって十字軍が残留して分裂と混乱を招いたこと。

  • 東方教会と西方教会が双方ともローマ教皇の支配化に置かれていたため、コン スタンティノープルでは多くの混乱が生じたこと。

  • バルカン半島の民族から断続的な攻撃を受けたこと。

  • コンスタンティノープル解放を望むムスリム勢力が強力だったこと。

  •  アブー・バクルやオマル(*訳注)の時代から、ムスリムにとってイスラーム 解放の目的地はペルシャとビザンツ(東ローマ)でした。そのうちのペルシャ解放 は早々に達成されました。

     ペルシャにおけるムスリムの勝利には数々の要因がありますが、それは、当時 のペルシャの首都マダーインの陥落に帰するところが大きい、と言う歴史家たち もいます。首都陥落は国家に大混乱をきたし、その後に負の結果をもたらすから です。

    <*訳注:アブー・バクルとオマルは、聖預言者モハンマドの死後、第1代目、 第2代目のハリーファ(カリフ)となった人物>

     しかしビザンツ解放に関しては、ムスリム軍は結果的に大勝利を収めました が、それには長い戦いが必要でした。ビザンツの首都コンスタンティノープルは ムスリムの地から遠く離れていたのです。

     ムスリムはコンスタンティノープル解放を望んでこれ以上ないほどの力を費や しました。アッラーの使徒モハンマド(彼に平安と祝福を)がかつてこのように言 い残したからです。

    《あなた方はきっとコンスタンティノープルを解放するでしょう。そのアミール は何と素晴らしいアミールでしょうか。そしてその軍隊は何と素晴らしい軍隊で しょうか。》

     しかし、コンスタンティノープルの解放は何世紀も遅れることになりました。 コンスタンティノープル解放のための最初の遠征は、ウマイヤ朝のハリーファ、 ムアーウィヤ・ビン・アビースフヤーンの時代でした。それはヒジュラ暦49年 のことで、ムアーウィヤの息子、ヤズィードが指揮をとりました。

     その遠征でめざましい活躍をした英雄の中に、使徒モハンマドの教友、ア ブー・アィユーブ・アル=アンサーリーがいました。彼はその戦いの中で自らの 死期が近いことを感じ取り、またそれと同時に、コンスタンティノープル解放へ の道はいまだ遠いとも感じていました。そこでムスリムたちに再度、同地解放へ の熱意を促そうと思い、ヤズィード・ビン・ムアーウィヤに対してこのように言 い残しました。

    「もしも私が(途中で)死んだなら私を連れて進軍を続け、解放の可能性がある 限り私と共に敵地で解放を果たしなさい。そしてもし可能性がないようなら私を その地に埋めて撤退しなさい。」

     結局この遠征は失敗に終わり、ムスリムは、スライマーン・ビン・アブディル マリク(ウマイヤ朝カリフ)の時代に、再度コンスタンティノープル解放を目指 しました。指揮官はマスラマ・ビン・アブディルマリクでした。

     その解放遠征の旅で、ムスリム軍はコンスタンティノープルまでの地域では成 功を収めたのですが、主目的であったコンスタンティノープル解放はかないませ んでした。ムスリム軍は同地を包囲しましたが、新しいハリーファ、オマル・ビ ン・アブディルアズィーズは同地に到着すると、包囲を解くよう命じたのです。

     アッバース朝の時代にも、アル=マハディーとアッ=ラシードの治世にコンスタ ンティノープル解放が試みられましたが、いずれも失敗に終わりました。

     そしてその後、オスマン帝国時代の初期にそれは新たに試みられ、バヤズィー ド(バヤズィト)1世とムラード(ムラト)1世がコンスタンティノープルを包 囲したのですが、その努力も成功に結びつくことはなかったのです。

     このように、コンスタンティノープルは8世紀近くの間、ムスリムの試みに抵 抗し続けましたが、やがて「征服王モハンマド(モハンマド2世/メフメト2 世)」の手で同地解放の偉業は達成されました。それにより、かつて預言者モハ ンマドがもたらした吉報はついに現実のものとなったのでした。

     次回は、力と正義を兼ね備え、イスラーム史に偉大な足跡を残した人物、コン スタンティノープルの解放者、「征服王モハンマド」についてお話しましょう。 それではまたお会いする日まで。


筆者:リハーブ・ザハラーン

(2008年2月19日更新)

                

(→バックナンバー
(→週刊アラブマガジンのトップ


 
↑UP↑

前に戻る


アラブマガジンへもどる

アラビア語カフェ | アラブ イスラーム学院 | サイトマップ | ヘルプ



2008年 アラブ イスラーム学院