オスマン帝国の歴史
 

【その出自と成り立ち】



 東京アラブイスラーム学院がお届けするウェブサイトの「アラブマガジン」の 読者の皆様、イスラーム史の新シリーズへようこそいらっしゃいました。このシ リーズでは、イスラーム史のある時代の片鱗について、皆様と一緒に見ていきた いと思います。それは、800年近く続いたオスマン帝国の時代です。

 シャム北部、小アジア(トルコ)国境地帯で行われた初期のイスラーム解放遠 征の後、同地帯では、東ローマ(ビザンツ)帝国とムスリムの争いがなおも続い ていました。しかしそれは攻撃の域を出るものではなく、その状況は、やがてム スリム集団のセルジューク朝が小アジアに進出し、東ローマ帝国を倒して小アジ アから彼らを追放しようと望むようになるまで続きました。

 セルジューク朝はやがてその望みを達成し、マラズギルト(マンツィケルト) の戦いで東ローマ帝国に勝利しました。そしてセルジューク朝は小アジアへ入 り、同地はオスマン家の領土となりました。オスマン家は東ローマ帝国との戦い に参加した勢力集団の一つでした。

 オスマン家はトルコ系アル・ガッズ部族の一つ、カービ族に帰属する一族であ り、カービ族はトルキスタン出身の部族です。カービ族最古の部族長はスライマ ンという人物でしたが、彼がアレッポとの国境で殺された時に部族は分割されま した。

 それでスライマンの息子エルトゥグル(エルトゥールル)は、小アジアへの進 攻続行の道を選び、(ルーム)セルジューク朝のスルタン、アラーゥッディーン 2世に仕えて、東ローマ帝国との戦いで彼を援護しました。そのため、セル ジューク朝のスルタンはエルトゥグルにローマ帝国との国境にある沼沢地帯を与 えました。

 そこでエルトゥグルは東ローマ帝国に進攻して自らの領土を拡大し、「シャ クード」を自らの首都に定めました。その後、1258年に息子のオスマンが生 まれると、エルトゥグルは彼を熱心に教育し、軍術を身につけさせました。そし てオスマンは父の最良の援助者となったのでした。

 1281年にエルトゥグルが亡くなると、オスマンはセルジューク朝スルタ ン、アラーゥッディーンの同意を得て、生前の父の地位に就きました。オスマン はその後も引き続きセルジューク朝を援護し、戦いにおいて彼らを支えました。

 そのため、アラーゥッディーンはオスマンを優遇し、一種の独立権を与え、オ スマンが解放したすべての土地や城塞を彼に与えました。そして彼の名による硬 貨の鋳造を認め、金曜礼拝の説法では彼の名をセルジューク朝スルタンの名と共 に述べ、彼に「ベイ(ベク)」という称号を与えたのです。

 こうして、オスマンは最も重要な君侯国の君主となり、領土拡大の試みを続け ました。そして東ローマ帝国の都市「コッラトゥ・ヒサール」を奪取し、同地を 自らの首都に定めました。

 その後、モンゴル帝国の攻撃によってセルジューク朝は小アジアから消え去 り、1299年にスルタン、アラーゥッディーンは亡くなりました。それでオス マンは完全独立を宣言し、彼の名を取った「オスマン帝国」を成立させたのでし た。

 すると、セルジューク朝の諸侯や長老たちは、オスマンの庇護下で生きていく ために彼の許へやって来ました。そしてそれは彼らだけではなく、タタール人に 抵抗するムジャーヒディーン(ムスリム戦士)集団や、スーフィー集団、そして 一部のイスラーム学者たちも同様でした。タタール人の攻撃後、その地域にはム スリムが庇護を求めることができる国家はオスマン帝国の他になかったのです。

 オスマンは、モンゴル帝国がコンヤのセルジューク朝との戦いに気を取られて いるのを好機ととらえ、その間に解放遠征を進め、領土を拡大していきました。 当時オスマン帝国はいぜんモンゴル帝国の脅威に晒されてはおらず、その手はま だオスマン帝国に及んではいなかったのです。

 その後、1326年にオスマンは亡くなり、息子のオルハンが即位しました。

 アラブマガジンの読者の皆様、次回はオスマンの息子、オルハンの解放遠征に ついてお話しましょう、インシャーアッラー。それでは、またお会いする日ま で。


筆者:リハーブ・ザハラーン

(2008年1月8日更新)

                

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