イスラーム社会
 

【サウジイスラーム社会における個人の諸権利 1】


 家庭はいくつもの個人から成り、社会はいくつもの家庭から成る。これまでの 文章で示してきたように、私はサウジ社会において個人と家庭が学ぶところの道 徳や特質の多くを説明してきた。疑念の余地のないことだが、健全なる教育を受 けてきた個人と家庭から成立する社会は、互助性が強い、正しく良い社会にな る。というのもそこにおいて各個人は義務と権利をわきまえ、自らの義務を果た すことに満足し、生命と財産と尊厳において安心していられるからである。それ ゆえ社会全体も平和と安定の下にあることが出来るのだ。それでは各個人が全て の面において一丸になって助け合うことが出来るようになるため、社会に堅固さ と安定を供給する原因と手段とは何であろうか? アッラーがそのしもべたちに お与えになった恩恵の中でも最も偉大なものの1つである、イスラーム兄弟愛が そのうちの1つであろう。この兄弟愛は愛情、平安、相互扶助、結束といったも のをもたらす、ムスリム共同体の基本なのである。そして相違や争いといったこ とは、それが起こったら即その基本に立ち返らなければならないところの例外な のである。

 これから私がこの文章を通じて行おうとしていることは、サウジ社会が個人に インプットし、そしてその実践に努力するところの道徳意識かつ特質を読者の皆 さんに説明することである。そしてそれらは人々の間に兄弟愛を芽生えさせるが ためなのであり、かつ社会に平安と堅固さと幸福を実現させるがためなのであ る。そして読者の皆さんは、私が述べていくこれらの項目―私が「個人の他人に 対する諸権利」と呼ぶもの―が決して真新しいものではないことにお気づきにな られるだろう。というのもサウジ・ムスリム社会も他の多くの民と同様、平和を 望む社会であるからだ。ただ何がサウジ社会を際立たせるかと言えば、それは彼 らが実践しようとしているそれらの特質が国民の心に深く根付いた宗教的・信仰 的なものであり、かつ人間の健全な性質にそぐっていることであろう。それゆえ これらの特質を実践しようとする彼らの衝動は強力になるのであり、イスラーム の教えがもたらしたものの実践によって現世と来世の幸福が実現するという彼ら の信仰は非常に固いのである。

 このテーマを説明するにあたり、読者の皆さんに分かりやすく読んで頂くた め、話を2分割することにした。前半ではそれを実践することで社会に兄弟愛が 芽生える特質を取り上げ、後半では兄弟愛を損ない、かつ社会からの平和と幸福 の喪失と社会の退廃をもたらす禁じられた要素を取り上げようと思う。

1.主アッラーにおいて愛し合うこと

 それはつまり、社会に属する個人が互いに愛し合うことである。そしていずれ 消えゆく現世的な目的ではなく、アッラーの御顔を意図した愛でもって愛し合う ことである。アッラーゆえの愛はかれが永遠であるゆえに、永続する。しかし物 質的な目的ゆえの愛は、物質が消えゆく性質であるゆえに消滅するのである。愛 し合う者たちは互いに安らぎを得る。それゆえアッラーは人間に、愛する者には 「愛しています。」と明言するよう命じた。それはより互いの親近感が増し、ま た相手の心に平穏をもたらすがためである。このようにして人々の間には愛情や 寛容さ、他者優先の精神などが生まれる。そして誰もが住みたいと夢見るよう な、素晴らしい社会が世界に出現するのだ。しかし残念ながら、物質主義が人々 の心と理性を支配してしまった。そしてムスリムもまたイスラームが命じる義務 を忘れ、他の民と同様に物質主義の中に埋もれ、憎しみと嫉妬の社会の中に溺れ ているのだ。

2.お互いに訪問と連絡をもつこと

 ムスリムがアッラーの御許での報奨を望んでその同胞を訪問することは、アッ ラーが最もお悦びになるところの良い行為の1つである。ただ訪問者はそのタイ ミングをよく見計らなければならず、相手が訪問されることで喜びそうな場合は 訪問を重ね、一緒に時を過ごす。しかし相手が忙しそうだったり、あるいは1人 で居たそうな場合は訪問を控え、彼の邪魔をしないようにする。病人のお見舞い も同様で、病人がそう望むのでなければ、長居はしない。尚病人のお見舞いは預 言者ムハンマドが強く推奨したことの内の1つで、病人とその家族、お見舞いす る者たちの間の愛情を深めるものである。それによって病人は気遣いの気持ちを 感じ、心が癒され、訪問する側は彼の安否を知り、かつ病状の回復を望むことに つながる。預言者ムハンマドは、病人のお見舞いをムスリムの同胞に対する義務 の1つに数え上げている。お見舞いや訪問の真価は、1人きりで誰からも気遣わ れずに病気や孤独と戦ったことのある者にしか分からないだろう。そしてこのよ うな状況は、不信仰の国や、イスラームの作法から遠のいてしまったイスラーム 諸国になんと多いことだろうか。

 しかしサウジ社会に暮らしたことのある者なら、各人の中にこの特質が根付い ていることを明白に知ることが出来るだろう。1週間に1度も訪問者のない家は なく、訪問や集まりが幾度と繰り返されることについては前にも述べた通りであ る。病人のお見舞いも気軽かつ頻繁に行われ、お見舞い客のない病室は皆無に等 しい。数年前私の祖母が病気になった時、私たちは数ヶ月間に渡って彼女を病院 に入院させなければならなかった。そして当時その病院が提供してくれていた高 度のサービスと、祖母がほぼ意識不明の痴呆的状態であった事実にもかかわら ず、私は彼女が一晩として一人で夜を過ごしたことを覚えていない。私たちは毎 晩彼女に交代制で付き添い、奇妙にも誰が付き添い役を獲得するかを争っていた ほどだったのだ。実際のところ、彼女の病状は重かったにもかかわらず、私は彼 女が私たちにいつも囲まれて幸せだったのではないかと感じている。このように サウジ社会では病人も障害者も、生きている者も死んでいる者も互いに隔離され ることはない。墓地もまた死人の訪問者で溢れているのだ。

3.食事の招待とその応答

 互いの愛情を喚起する、良く知られたイスラームの手法の1つとして食事を作 り、人を自宅に招待するものがある。特にそれは結婚式や新生児のお祝い、新生 児7日目の宗教行事などの機会に顕著である。預言者ムハンマドは空腹の者に食 事を与え、また招待する側もされる側もその心の中が幸福感で満たされることか ら、食事への招待をイスラームにおける重要な物事の1つとしている。そしてム スリムは、その兄弟姉妹に対して何か好ましくない感情などを抱いている時など は特に、それを解消するためにも彼らを食事に招待すべきであるとされている。 そしてこの美点はサウジにおいてとても普通に見られることであり、一方で私が 東京の生活においてなかなか体験出来なかったことである。そこでは人々は滅多 に誰かを家に呼んだりせず、私が招待を受けたのは大概レストランであった。後 にその理由が日本の家の小ささであることを知ったが、しかしそれは十分な理由 には思われない。あるとき私は日本の普通の1LDKのお宅に10人の人々と共に お呼ばれされたが、信じて頂けるだろうか、その日はこの上なく楽しい時を過ご したのである。それどころか私たちは在東京のアラブ人女性たちの間で、毎週会 合を持っている。会合の場所は毎週参加者の自宅を転々とする。この会合を私た ちが始めたのは1年も前になるが、私たち(ちなみに6人)はまだ全然飽きてい ないし、参加者の内の誰かが小さく質素な家ゆえに客の歓待に気が進まずにい る、などということも起きていない。これが私たちの会合好き、招待好きの姿な のであり、この精神は私たちの心に強く根付いているのだ。東京にいてもそれは 変わらない。

4.困窮者と弱者の援助

 アッラーはその創造物をその強さや弱さにおいて多様にお創りになり、そして ある者をその糧において他の者より優遇された。そして通常弱者は強者を、貧者 は富者を必要とし、病人は健康な者を、ある事に無知な者はそのことについての 知識を持つ者を必要とする。

 またアッラーは善行と敬神の念において援助しあうことを命じ、罪悪と敵対心 のもとに援助し合うことを禁じられた。そして今日同志が必要としているもの は、明日は自分自身が必要となるかもしれない。必要を満足させることはイス ラームの兄弟愛の求めるところのものである。そしてイスラームにおける社会教 育は善行を勧め、悪行を禁じることなのである。全世界が求めている平和とは、 実にこのことなのだ。そしてそれは孤児の援助や貧者の救済、無所有者に衣食を 与えることなどを命じているイスラーム教育の他にはない。もとより困窮してい る者を援助するのは社会がそうでならなければならないところのもので、それは 特定の個人や場所、時間に限定されてはいない。それどころか特定の宗教だけに 向けられてもいない。逆に人間は宗教や国籍、時間や場所などに制限されること なく、困窮者を援助しなければならない。

 親愛なる読者の皆さんに向けてもう一度強調するが、イスラームという教えは ムスリム以外の人々に対して邪険に振舞うことなど命じてはいない。その反対 に、彼らへの奉仕はムスリムに対する奉仕と同様のものである。もし彼らが私の 言うことと矛盾することをしているのを見たら、あなたはムスリムが真のイス ラームから遠くかけ離れた所にいることを確認するだろう。

5.挨拶を広めること

 「サラーム」とは信仰者の挨拶である。そして最もよい挨拶は「アッサラー ム・アレイクム・ワ・ラハマトッラーヒ・ワ・バラカートフ(あなた方の上に アッラーからの平安とご慈悲と祝福あれ)」で、あるいはただ「アッサラーム・ アレイクム・ワ・ラハマトッラー」「アッサラーム・アレイクム」といっても良 い。「サラーム」というのはアッラーの美名の内の1つでもあり、クルアーンの 中にも現れる。そしてまたそれは、アッラーが現世と来世においてしもべに与え た最も偉大な挨拶であり、アッラーが預言者たちに下した挨拶の言葉なのであ る。それゆえそれは預言者とその追随者の信仰者たちの挨拶なのであり、来世に おける天使の天国の住人に対する挨拶でもある。預言者ムハンマドは、信仰者の 間でこの挨拶を広めるように命じた。つまり2人、あるいはそれ以上のものが出 会ったとき、この挨拶抜きで済まされることはない。規則としては歩っている者 が座っている者に、乗っている者が歩っている者に、少ない者が多い者たちに、 年少の者が年配の者に先に挨拶することになっている。

 そして誰かに挨拶するということは、彼らの間の恐怖心を除去し、互いに歩み 寄らせ、かつ親近感と好感を感じさせる効果を及ぼす。そして互いに平安を感じ ることが出来るのだ。それゆえ多くの場合、挨拶しそれを返す者たちの顔には笑 顔や微笑が見られる。一方で互いに挨拶し合わない者たちの顔は無愛想な硬さが 見られ、挨拶する者たちの間に生まれるような平穏や安らぎを感じることは出来 ない。

 実のところを言えば、私が日本に来て間もない頃、私の孤独感を取り除いてく れたのは日本人のこの挨拶だったのである(一部の西欧人はこうではない)。異 邦人に対する彼らの笑顔のなんと素晴らしいことだったことか。そしていつでも どこでも交わされる彼らの挨拶(無論その当時私はその意味が分からなかった が)のなんと繊細であったことか。私は実に日本人のそういうところが気に入っ た。そして彼らはその笑顔と挨拶でもって、私との間の壁を壊してくれたのだ!

 全人類の間に広まってほしいと私が望む、こういった素晴らしい事実を述べて おきながら、この文面の中では私はあなた方に微笑むことも出来なければ、別れ の挨拶をすることも出来ない。それでは今回はこの辺にして、次回また話の続き をすることにしよう。それではまた、さようなら。


執筆:ラシャー マンスーリー
アブドルアジーズ国王大学元研究員

                

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