イスラームQ&A
 

【ダーウィニズムに関するイスラームの見解】
 

宇宙と生命の起源について、人々は歴史を通じて色々な考えを出してきました。
それは二つに分かれます。 一つは物質論者、もう一つは神の創造を信ずるものです。
初めの講演で進化論は物質主義に基づいていることを見ました。物質主義は物事で宇宙は構成され、それ以外はなく、また常にそれが支配していると言います。また生命のないものから次第に生まれ、宇宙も偶然形作られたと言います。つまり自然な環境と偶然が全てだと言うのです。物質主義と進化論は互いに補完しているのです。

この補完関係は古代ギリシアでも見られたのですが、19世紀の未発達の科学の下で再び息を吹き返し、進化論の科学的に妥当かどうかは別として、それは物質主義を支持しているとして、直ちに物質主義者が利用する所となりました。

創造の考えは、進化論と逆です。つまり物事がまずあったのではなく、またそれは支配するのではなく、されてきたのです。神が無から作り出し、それに秩序を与えました。すべてはその創造にかかっていることは、宇宙と生きるもの凡てに計算、均衡、そして秩序があることから、はっきり分かります。宗教こそは創造が真実であることを教え、人々はそれを理性と観察により把握できます。ことの初めより、神が命じられた所により宇宙は創られたと、凡ての天啓の宗教は教えています。

「有れ!」と言う命令と、その間違いなき働きは神の偉大な創造力を物語ります。このことはコーランの多くの言葉に見られます。その注意深い無からの創造について、二つの引用をします。「天と地の創造者である。かれが一事を決められ、それに「有れ」と仰せになれば、即ち有るのである。」(雄牛章17)それから「またかれこそは真理を持って、天と地を創造された方であられる。その日は、かれが「有れ」と仰せになれば、即ち有るのである。かれの言葉は真実である。ラッパが吹かれる日、大権はかれに属する。かれは幽玄界も現象界も知っておられる。かれは英明にして凡てに通暁しておられる。」(家畜章73)

近代科学は物質的進化論を無効とし、創造説を支持しています。宇宙の生成について、偶然ではなく創造によることを示す証拠はたくさんあります。空を見上げ、地球を見て、あらゆる生物を観察する時、神の偉大な力と知恵を看取できるでしょう。

神を信ずる者と、物質を信じるものとの違いは基本的です。アッラーは創造を否定する人たちに対して、彼ら自身の問いを逆に問い掛けます。「かれらは無から創られたのではないか。それともかれら自身が創造者なのか」(山章35)と。

ことの初めから、人も宇宙も創造されたのではないと主張し、その非理性的で非論理的な考えを正当化しようとし、ついに19世紀にいたり、ダーウィンの理論に最大の支持を見出したのでした。

ムスリムにはこの点、妥協はありません。もちろん人には考え、信じる自由があります。しかしアッラーとその創造に関して妥協することは、宗教の根幹に関ることです。それを受け入れることは宗教にとって最大の災いをもたらすことを進化論者は知っており、信者にそのような妥協を迫ることもあります。

ダーウィニストは進化による創造説を説く
進化論をむやみに支持する科学者達は、新たな科学の進歩によって益々窮地に陥っています。新たな発見は凡てその反証となり創造説の正しさを示すので、進化論では誇り有る科学的な証拠に変わって、デマゴギーがはびこって来ました。

進化論の科学雑誌として有名な、サイエンス、ネイチャー、サイエンティフィック・アメリカ、ニュー・アメリカなどは、進化論のいくつかの側面は袋小路に行き当たった事を認めています。創造説を支持する科学者達は、議論で有利に立ち進化論の根拠のない主張を退けています。

しかしここで創造が進化によって行われたと言う見解が、物質論者の手助けに乗り出します。英明な意思の下の創造に媚びて、ダーウィニズムに対する対抗力を損じようとするのです。進化論者は神を信じないのは変わらないのですが、神は進化を通じて創造したという宗教的進化論に対して沈黙を守っていれば、その立場は強まると考えるのです。事実彼らは、進化論を支え創造説を弱めるために、それらの間の妥協を図ろうともします。

そこでムスリムは、アッラーは宇宙を創造するとともに科学的根拠の薄弱な進化論も支持するという過ちは避けるべきです。また同時に、進化論はコーランと共存し得ると言った間違いも避けねばなりません。コーランには多くの警告が発せられています。かような間違いを犯しているとするならば、ムスリムは直ちに物質主義者を支援するような立場とは、袂を分かつべきです。

神の実在
地球上の生命の誕生については、二つの異なる回答がありえます。一つは進化です。それによると生命は偶然に「自己組織」とも言うべき仮設的な自然の定めに従い、一つの細胞から生まれたということです。それがさらに発達、進化し、何百万と言う種類の命を育んだというのです。

二つ目の回答は、創造です。それは英明な創造者のなせる技であると説きます。偶然などではなく、何百万の命は創造の初めから現在のような完全で欠陥のない素晴らしい姿を持っていたと考えます。

これら二つ以外には、第三の主張あるいは仮説はありません。いずれか一つが間違っているとなれば、もう一方が正しいというのが論理的な帰結でしょう。これは消去法的演繹と呼ばれるものです。

言い換えれば、偶然によって進化したのでないとすれば、それは創造説が正しいということに他ならないのです。進化論者でさえも、第三の選択肢がないことは一致しているのです。

化石の語る種の起源
一つの祖先から少しづつ変化して、色々の種が生まれたと進化論は主張します。いわばそれは予め決められたカテゴリーなしで、生命は継続的に変化する現象であると考えるわけです。ところが自然を具に観察すると、そのような継続的な現象は見られないのです。実際種ははっきりと区別されるカテゴリーに分かれているのです。

進化論では、凡ての種はその先祖から生まれたとします。時間の経過の中で、一つの種は先代の変化したもので、凡てはそのようにして生まれたとするわけです。そしてこのプロセスは何百万年と言う時間を掛けて行われるとします。

もしそれが正しいならば、凄く長い時間の間にその変化が生じ、そこには様々な中間種が生まれていたと言うことになります。たとえば、半分魚で半分爬虫類と言うような種類です。あるいは半分爬虫類で半分は鳥類といったものです。進化論者は、これらの想像上の動物を、「経過的な形態」と呼んでいます。

しかしもしそれらが本当にいたとするならば、それは何百万、いや何十億と言った単位になるでしょう。そしてそれらの化石も見つかっていて不思議ないはずです。それらの中間的な形態は現在の実在する種類よりも多かったでしょうし、その化石は世界中に見つかってもおかしくないはずです。「生命の起源」の著作の中でダーウィンはこれを支持して、言っています。

「私の理論が正しいなら、同グループの種を結びつけるいろいろな多くの中間形態が確かに存在したに違いない。だからそれら以前の形態は、化石に見出し得るに違いない。」

しかしダーウィン自身がそのような中間形態が見つかっていないことを知っていました。そこでかれは将来に希望をつなぎました。この楽観論にもかかわらず、同時にそれが彼の理論の最大の障害であると考え、その著作において「本理論の諸困難」と言う一章を設けたのです。次はその引用です。

「もし少しづつの変化で種が変わったとすれば、それらの中間種があちらこちらにどうしてないのだろうか?見た所、種はすっきり区別されるが、どうして凡ての自然は混沌としていないのだろうか?…中間領域で中間的な生命状態を持つ、中間的な種がどうして見当たらないのだろうか?これが私の長年の問題なのである。」

ダーウィンの予言を信じて、進化論の考古学者たちは19世紀半ば以来、世界中で化石を掘りまくり、この失われたリンクを捜し求めてきました。しかしそれは徒労に終っています。むしろ進化論とは反対に、掘り出された化石凡ては、生命は突如、しかも全き形で現れたことを物語っているのです。

このように急に、そしてそれぞれ異なる構造をもって種は生まれ、それは地質学上の極めて長い時間を通じて変化しなかったことをこそ、化石は証明するのです。有名な進化論考古学者でハバード大学で教鞭をとるステーファン・ジェイ・グールドは、70年代末にこのことを初めて認めて、次のように言いました。

「漸次変化すると言う考えに一致しない二つの点を、化石の歴史は物語っています。一つは静態的だということ、つまり大半の種は地球上で一定の方向性を持って変化していた形跡はないと言うことです。滅亡した時とほとんど同じ姿で、形態上の変化は限られ、方向性は見られません。第二には突如現れると言うことです。つまりどこでも、ある種はその祖先から徐々に出てくるのではなく、急激にかつ全き姿で登場しているのです。」

“生命の樹”を化石は否定する
ダーウィンの仮説によると、生命は一つの共通の祖先から生まれ、少しづつの変化で凡ての種類が誕生したと言うのです。それならば、生命は当初互いに非常によく似た単純な形態であったはずです。そしてその間の相違点や複雑化はほぼ平行して生じたと言うのです。

それは共通の根を持って、それから異なる枝に分かれている一つの樹木に喩えられるでしょう。つまり“生命の樹”がいつも示されるのです。種を分けている基本的な要素は左の図にあるように、徐々に現れたとするのです。

進化論では、一つの要素がまず出てきて、次いで長時間を掛けてゆっくりと他の諸要素も出現することになります。これらの諸要素の数は、徐々に増える、そしてそれが進化でもあると言うのです。でも本当にそうでしょうか。

事態は全く異なります。諸動物は出現した時から、極めて異なり、複雑な姿でした。化石を調べると分かるのですが、生物は原始的な形から発達形へ進化したのではなく、突如その全き姿で出現しています。これは正しく偶発的な自然の過程により生命は生まれたのではなく、英明な創造の働きによるものであることを示しています。進化論考古学者ジェフリー・レビントンがいやいやながらも、サイエンティフィック・アメリカ誌の「動物進化のビッグ・バン」と言う論文においてこの現実を認め、次のように言いました。「従って、その時には何か特別の、大変に神秘的な、そして非常に創造的な“力”が働いたに違いありません。」


執筆:Dr.Omer Cenker llicali
Specialist in ENT Head and Hair Transplantation


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