AA諸国との連帯
このバンドン会議の前後、新興諸国の国際舞台への登場につれて、日本でもア ジア・アフリカ諸国との連帯を求める国民運動が高まり、文化人の使節団がアジ ア諸国を訪問した。スエズ戦争の際にはエジプトへの医療、繊維、食糧などの救 援品を送る運動も展開されたが、この国民運動の1つの頂点となった1957年 のカイロのAA諸国民会議には、当時の与党の有力政治家を含む58名の超党派 代表団(団長北村徳太郎氏)が参加し、AA諸国との多様な連帯を表明した。
高まるAA諸国との連帯運動は、当時熾烈な独立運動を続けていたアルジェリ ア民族解放戦線(FLN)代表、アブデルラーマン・キワン氏の1958年の原 水爆禁止世界大会への参加となった。宇都宮徳馬氏、淡徳三郎氏らはFLN東京 事務所開設に尽力し、ここに日本北アフリカ協会が誕生した。
このFLN東京事務所の2代目代表アブデルマレク・ベンハビレス氏は、19 62年のアルジェリアの独立とともに初代駐日大使として赴任。長年アルジェリ アとの連帯運動の推進役であった同協会事務局長淡徳三郎氏が1977年死去し た際、アルジェリア最大の雑誌「アルムジャーヒド」は「アルジェリアの友の 死」と題する追悼社説を掲げた。
現在のアルジェリアの警官の服装が日本の警官と全く同じで、筆者はアルジェ の町角の雰囲気に親しみを覚えたが、これはFLN東京事務所開設に協力した日 本国民へのアルジェリア政府の感謝の一端であるとのことだった。
筆者:阿部政雄
転載:「アラブ案内」グラフ社(1980年発行)
(2008年1月22日更新)
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