アラブ案内
 

【日本にとってアラブとは何か 3】
〜“アラブ気狂い”なる称号〜


エジプトはイスラエルとの単独講和で、アラブ連盟から資格停止中。


先日、さるところを訪ねたとき、紹介された課長さんから全く善意の発言では あったが「大変失礼な言い方かも知れませんが、うちの課にも以前先生のような “アラブ気狂い”の若い課員がいたことがありまして……」と切り出され、 1973年の“石油ショック”頃までよく耳にした“アラブ気狂い”の称号に再 び接し、思わず微苦笑したことがあった。

アラブでは、何か物に憑かれた“気狂い”のことを“マジュヌーン”という。 「マジュヌーン・ライラ」という有名な語り物文学は、日本のお夏清十郎の物語 に似た、恋人ライラとの仲を裂かれて発狂する詩人カイスの悲恋物語であるが、 実は、イスラムを唱道し始めた頃の預言者マホメットも、始めのころは、“マ ジュヌーン”扱いされたという。

何も預言者にあやかろうという考えは毛頭ないが、私の“アラブ気狂い”のルー ツを辿れば、旧制中学生時代を戦時中の軍国主義教育の中で育くまれ、昭和一桁 生れが垣間見た「大東亜共栄圏」の夢であろう。国のために桜の花のように潔く 死ねと叩きこまれていただけに「大東亜共栄圏」の理想は、まさに“北斗の星” であり“燦めく星座”であった。しかし、終戦が近づくにつれて、その夢にも多 くの疑惑が生れてきたし、戦後はそれが虚構のスローガンとして崩れ去り、星影 のまたたきも消えて、夜空は暗闇に変わってしまった。

そんな戦後の夜空に、また一つ、二つと大きくまたたき始めた星は、平和国家、 文化国家として再出発した日本の平和憲法の理想であり、1955年バンドンに おけるアジア・アフリカ会議において高らかに宣言され、のちに広く世界の非同 盟諸国に引き継がれた“互恵平等”と“人間の尊厳”という道義の旗印であっ た。「大東亜共栄圏」という幻は消えてしまったが、若き日の私の心に点火され た”アジアの解放“”共存共栄“の聖火は、その後筆者がアジア・アフリカ諸国 との文化交流の実務に携わったあと、在日エジプト大使館文化部や駐日アラブ連 盟代表部での勤務、さらに文化使節団、TV取材班、国際会議等への参加など、 絶えずアラブとのかかわりを続ける中で、かかげ続けることができたのは幸いで あった。しかも、戦後のアラブ諸国と日本との協力は、戦前の思い上がった日本 中心の”王道楽土“ではなく、”主権尊重“の立場に立つことも大きな励ましで あったし、すでに述べたようにアジアの輝ける一番星、近代工業国家日本への期 待が大きいことも私を絶えず突き動かしてきた原動力である。

さらに、これは大分気障に聞こえるかも知れないが、あえて言わして頂ければ、 発展途上国との真の協力の中に生きることが、あの大戦争の犠牲として死んで いった多くの人々の霊を慰めることにつながるのではないか、ささやかなりと私 なりの「ビルマの竪琴」を奏でることになるのではないかと思い込むようになっ たからである。

あの戦争で犠牲となった人々の霊が私に乗りうつり、私はただ巫子として発言し ているものとお考え頂きたいのだが、戦後の日本の社会が少しおかしくなり、 「人の心」より「モノ」が大事にされてきたのは、日本の社会が平和憲法を読ま なくなったからではないだろうか。この点、常住坐臥、読むべきコーランを持っ ているアラブの人々の方がより健全な“精神的バック・ボーン”をもっていると 言えるだろう。

もう一度話を前に戻すと、アラブとか発展途上国との協力を進めるのは、決して 特殊な専門家や“気狂い”とみなされている篤志家だけにまかせられていいよう な小さな問題ではなく、日本国民全体の課題でなければならない。

江戸時代中期の経世学者、兵学者の林子平は1788年に「江戸日本橋より唐土 及びオランダ迄も境目なき水路なり」と喝破したが、このデンでいくと、サウジ アラビアやイランの石油パイプは日本の家庭のガス管にまで通じていることにな る。これほど密接に関りあっているのだから、われわれ日本人はアラブ・中東の 人々とのつきあいを、石油や貿易だけに頼るのではない、心の通った協力関係に まで引きあげねばならない。


筆者:阿部政雄
転載:「アラブ案内」グラフ社(1980年発行)

                

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