十字軍の歴史
 

【第2回十字軍遠征】


 親愛なる読者の皆様、今日は、第2回十字軍遠征についてお話しましょう。

 十字軍がイスラーム世界への侵攻を遂げたことは、すべてのムスリムの心に痛 みをもたらしました。そして、十字軍の手によるバイト=ル=マクディス(聖エル サレム)の陥落こそ、ムスリムをジハード(聖戦)に駆り立てた最大の動機であ り、また、ムスリムを覚醒し、聖地奪還のため、また敵対者の手から聖地を守る ための努力へと駆り立てた最大の要因でした。

 当時のイスラーム2大勢力は、その弱体化により、十字軍侵攻に立ち向かう力 を持ち合わせてはいませんでした。それは、アッバース朝とファーティマ朝でし た。そして彼らの代わりにイスラーム世界を救ったのは、セルジューク朝と、そ の後のアイユーブ朝、マムルーク朝のスルタンたちでした。

 ハラブ(アレッポ)とモスルの太守、イマードッディーン・ザンキーは、十字 軍の攻撃を阻んだ最初のセルジューク朝指導者でした。ザンキーは、ヒムス(ホ ムス)とバアラバック(バールベック)を自国に統合することによって、強大な 軍隊を持つことに成功し、その力で、最初で最強の十字軍国家の軍隊を破り、征 服しました。それはウルファ(エデッサ伯国)で、ヒジュラ暦539年―西暦 1144年―のことでした。
 それにより、ザンキーは、ヒジュラ暦541年―西暦1146年―に亡くなる まで、東方イスラーム諸国での十字軍の夢を脅かす、ヨーロッパにとっての最大 危険要因となったのです。

 ムスリムの手によるウルファ(エデッサ伯国)の陥落は、西欧十字軍の魂を動 かしました。そこでローマ教皇はウルファ奪還をめざし、あたらな十字軍遠征を 呼びかけました。それが第2回十字軍遠征で、ドイツ(神聖ローマ帝国)君主コ ンラート3世と、フランス国王ルイ7世が率いる2大軍隊で構成されました。

 ルイ7世は軍隊を率いてダマスカスに向かいました。そこで、イスラーム援軍 はモスルとハラブ(アレッポ)からダマスカスに急進しました。ムスリム軍のそ の結集は十字軍を恐れさせ、やがて彼らはダマスカスの包囲を解き、撤退するこ とに決めました。
 それからコンラート3世はヨーロッパへ戻りましたが、その間、ルイ7世は 6ヶ月間パレスチナに残り、十字軍遠征がその目的を実現せずに失敗したことを 確かめると、彼も祖国へ戻りました。

 この遠征の失敗は、シャム(シリア地方)における十字軍の権威と地位とを凋 落させ、ムスリムの権力を強め、その精神力を高めました。そして、東方イス ラーム軍はそれに励まされ、失った土地を奪還し始めたのです。そのため、第2 回十字軍遠征は、十字軍の戦いの中でも、ムスリムの利における重要な転換点と みなされているのです。

 親愛なる読者の皆様、第2回十字軍侵攻の阻止において多大な足跡を残した人 物について、私たちは忘れずにお話ししなければなりません。そこで次回は、 ヌールッディーン・マハムードについて、そして敵軍阻止において彼が果たした 役割について、お話しすることにしましょう。それではまたお会いする日まで。


筆者:リハーブ・ザハラーン

(2007年3月6日更新)

                

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