正統カリフ伝
 

【カリフ ウスマーンの功績】
 

カリフ ウスマーンはイスラーム国家の歴史に残る偉大な功績を成し遂げました。
それらのうち重要なものを幾つか紹介していきたいと思います。

1−アルクルアーンの読み方の統一
イスラーム開放軍の指揮官であったフザイファ イブン アルヤマーンが人々の間にクルアーンの読み方の相違があることを指摘し、クルアーンの読み方の統一をカリフに提案しました。ウスマーンは統一させたクルアーンの読み方によるムスハフ(アブーバクルの命によりなされたもの)以外を各地から集めさせ、換わりに統一されたムスハフを配りました。

2−ムスリム海軍の設置
ムアーウィヤはカリフに国土安全確保のためにイスラーム軍の船を作る許可を求め、カリフはこれに同意しました。ムアーウィヤはこれを完成させ、ついで当時のエジプトの地方統治者であったアブドッラーヒ イブン アビッサラフも同様に舟を作りました。これにより、シャームとエジプト両地方に海軍が誕生しました。

3−イスラームによる諸都市開放
ウスマーン統治下で、イスラーム国家は拡大を広げ、東はトルキスターン、北は小アジア、南西はアフリカまでその領土を広げました。またキプロス・ロードス両島もイスラーム国家に含まれました。

・ウスマーンはシャームの地方統治者であったムアーウィヤにアルメニア開放を命じ、ムアーウィヤはハビーブ イブン ムスリマを指揮官とする軍を派遣し、それを成し遂げ、アルメニアはヒジュラ暦25年にはイスラーム国家統治下に収まりました。

・同様にヒジュラ暦27年にはチュニジアが指揮官アブドッラーヒ イブン アビッサラフにより開放され、同指揮官はヌビア王国と安全と商業における協定を結びました。

4−ホラーサーンとアルメニアの諸地域で起こった内乱の鎮圧

 

【ウスマーンの死】

カリフ ウスマーンはイスラーム国家の拡大に全力を尽くしました。彼は強い信仰心と繊細な心の持ち主であり、ウマル イブン アルハッターブのような強さと威厳の持ち主ではありませんでした。そのため、彼とイスラームを反復させる機会を狙っていた者たちにチャンスを与えることとなってしまいました。その最たる者がアブドッラーヒ イブン サバでした。彼はもともとユダヤ教徒で、形だけはイスラームに改宗したものの、心の中にはイスラームとムスリムに対する憎しみと悪意を抱いていました。

そして民衆に対して次のように言ったのでした。
「預言者イーサーがお戻りになられることを信じ、ムハンマドがお戻りになられると言う者をうそつき呼ばわりする民には驚かされる。ムハンマドのほうがイーサーより戻ることがふさわしいではないか。」
「全ての預言者には後継者がいる。ムハンマドの後継者はアリーである。」
「ムハンマドは最期の預言者で、アリーは最期の後継者である。」
「アリーからウンマの責任者である地位を奪ったもののなんと不正なことよ。あなた方の統治者たちとこのことを弾劾せよ。」
このようにして彼は嘘偽りを言いふらし、ムスリムたちを疑惑と猜疑の渦に放り込みました。各地で混乱が起こり、彼に協力する者たちを得ました。

これらの反乱者たちはマディーナにつめかけ、ウスマーンは彼らに対し寛大な処置をとりましたが、悪意を抱いていた反乱者たちには何の効果もありませんでした。
最終的にウスマーンは自宅を包囲され、クルアーンを読んでいたときに暗殺されました。これはヒジュラ暦35年ズルヒッジャつき18日の金曜日に起きました。そしてカリフはその晩、アルマディーナに埋葬されました。

次回は4代目カリフ アリーの紹介をしましょう。彼はどのようなカリフだったのでしょうか……


筆者:リハーブ ザハラーン
アラブ イスラーム学院講師

                

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