ここではカリフ ウマルが為した偉大な功績の中で最も重要なものを紹介します。
1−ヒジュラ暦の設置
ウマルは預言者ムハンマドのマッカからアルマディーナへのヒジュラ(移住)がイスラームの歴史において非常に重要であるとして、ヒジュラをムスリムたちの歴史の出発点としました。これにより、ムスリムたちはヒジュラ暦という暦を使い始めました。
2−イスラームによる開放
イスラームによる諸国開放はアブーバクルの業績を引き継いだ形となりました。すでにムスリム軍は諸国を開放し、イラク・ペルシャ・シャーム(現在のシリア・レバノンにあたる地域)・パレスティナ・エジプト・北アフリカの一部を支配していたペルシャやローマの影響をこれらの地域から一掃しました。
特筆すべき戦いの歴史は以下の通りです。
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アルブワイブの戦い(対ペルシャ):ヒジュラ暦13年(西暦634年)ラマダーン月。アルムサンナー イブン アルハーリサを指揮官としたムスリム軍の勝利に終わりました。 |
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アルカーディスィーヤの戦い(対ペルシャ):ヒジュラ暦15年(西暦636年)。サアド イブン アビー ワッカースを指揮官としたムスリム軍の勝利に終わりました。この戦いによりペルシャは弱体化し、またイラクのアラブ人の多くがイスラームを信仰しました。そしてペルシャ帝国の首都であったアルマダーインへの道がムスリムたちに開かれました。 |
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アルマダーインの戦い(対ペルシャ):ヒジュラ暦16年(西暦637年)。ムスリム軍が勝利しました。 |
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ネハーヴァンドの戦い(対ペルシャ):ヒジュラ暦21年(西暦642年)。アンヌウマーン イブン ムクリンを最初の指揮官としてこの戦いは始まり、彼が殺害されるとフザイファ イブン アルヤマーンが後任の指揮官となり勝利を収めました。この戦いは諸開放の開放と呼ばれ、それはこの戦い以後、ペルシャの属国であったインド・シンド地方などが次々とイスラーム軍の前に開放されたためでした。 |
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ヒジュラ暦14年(西暦635年)にはダマスカスが開放されました。 |
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ヤルムークの戦い(対ローマ):ヒジュラ暦15年(西暦636年)。アブーウバイダを指揮官としたムスリム軍の勝利に終わりました。この戦いの後、残りのシャーム地方のローマ属国が開放されました。 |
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ヒジュラ暦15年(西暦636年)イェルサレムの開放が為されました。これはアムルー イブン アルアースによるものでウマルはそこにモスクを建てることを命じ、そのモスクはウマルモスクと名付けられました。 |
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エジプト開放:ウマルはパレスティナにおける軍の指揮官であったアムルー イブン アルアースを直ちにエジプトへ向かわせました。これはエジプトの民衆がウマルとムスリムたちに助けを求めた後に行なわれました。当時エジプトはローマによる圧政を強いられていました。ローマはすべてのことに税をかけ、死体や、道を通常に歩くことにさえ税をかけたのです。圧政に苦しんだエジプトの民衆は、ウマルとムスリムたちの公正さをうわさに聞き、助けを求めたのです。これはヒジュラ暦18年(西暦639年)に行なわれ、この後ヒジュラ暦20年(西暦641年)に、全く血を流すことなく、エジプト全土がイスラームに改宗しました。 |
このように多くの偉大な開放がカリフ ウマルの時代に行なわれました。
3−新しい町の建設
イラクにおけるアルクーファ・アルバスラや、エジプトにおけるアルフスタートなど、開放された土地に新しい町を建設しました。そしてここから新たにムスリム軍が派兵されていきました。
4−開放された土地の分割
開放された土地が幾つかの州に分割されました。これは裁判官や税金を集める者たちの助けとなりました。また各種帳簿がつくられました。たとえばハラージュ(国庫の収入支出を記載するもの)の帳簿やジュンド(兵士たちの給与や階級などが記載されるもの)の帳簿などです。
これらはウマルが行なった功績のほんの一部です。
このカリフの時代にイスラーム国家は最も発展し、強化したことがおわかりになられたと思います。さて2代目カリフ ウマルはどのように亡くなったのでしょうか?話は次回に続きます。(続く)
筆者:リハーブ ザハラーン
アラブ イスラーム学院講師 |
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