アラブとの架け橋
 

【アラブに架ける虹の橋】
〜ありのままのアラブを紹介した人、阿部政雄を偲んで〜


ありのままのアラブを紹介した人、阿部政雄を偲んで


 “日本・アラブ通信”や“アラブに架ける虹の橋”主宰の阿部政雄が亡くなっ て、2006年の6月14日に1回忌を迎えました。

 新渡戸稲造が東に太平洋の架け橋を架けたように阿部政雄は、西に“アラブに 架ける虹の橋”を架けました。半世紀に亘って“真実のアラブを知ろうと”とア ラブ紹介に生涯をかけた阿部政雄が蒔いた種は、今少しずつ芽を吹いてきまし た。

 この機会に、阿部先生のご遺志を尊重し、ご遺族のご配慮とご協力を得て残さ れた膨大な数の写真をCD化し、アラブ イスラーム学院で保存し、興味のある 方に自由に使用していただくようにしました。順次学院のホームページで読者の 皆様に紹介していきます。

 撮影されたアラブ諸国の写真は、リビア、エジプト、レバノン、クウェート、 チュニジア、モロッコ、イラク、アルジェリア、UAE、シリア、ヨルダンなどで す。メデイア、出版関係で写真を活用希望の人は、アラブ イスラーム学院に申 し込み、阿部政雄撮影と明記して使用できるように考えています。

 更に阿部政雄著、グラフ社発行1989年の“アラブ案内”を学院のホーム ページに掲載する予定です。(2006年1月19日グラフ社の許可取得済)。

 近年、アラビア語を学ぼうとする日本人が増えています。安部先生が蒔いたア ラブと日本の友好の種は、着実に芽を出し、大木に育たんとしています。アラビ ア語を学び、アラブ映画の専門家となった人や、アラブ文学の専門家を目指し大 学院に進学した人、カメラマンとして、イラクの戦闘地帯に行った人、国連で働 くために更にアラビア語をシリアで鍛えている人、青年海外協力隊でピアノや音 楽を教えている人や看護士としてヨルダンの病院で働いている人や保育士として 働いている人、日本の調査研究機関でアラブの研究に励んでいる人、アラビア 語・日本語の翻訳をしている人、などなど学院は新しいタイプの多くの有能な日 本人人材を輩出しつつあります。

 言葉は文化を知るための鍵です。多くの日本人が、“アラビア語は難しい、ア ラビア人は難しい”といったニュアンスが固定観念となって浸透し、多くの日本 人がその観念に支配されて、学ぶことを躊躇していたのが現実の日本ではないで しょうか。日本人特有の、食わず嫌いのアラブ観を作り上げているのではと思い ます。

 阿部先生は、このような事実とかけ離れた観念的な日本人のアラブ観に対し、 英語、アラビア語、エスペラント語など多彩な語学力を駆使して自分の目で観、 自分が接した人たちを感性豊かで穏やかな人柄をもって、庶民も有名人も区別無 く、“ありのままのアラブ”を日本に紹介しようと心がけていました。

 ご遺族がおっしゃるには、阿部先生は、写真は独学で学ばれたようです。アラ ブが“アラブ学者”と称する一部の人たちにより、独占され、歪められていくこ とを好まず平和を志向する日本と日本人に、真の姿を紹介しようと草の根の努力 をされたことに深甚なる敬意を表します。そのことは現在我々日本人に求められ ている総ての世界の人々に偏見の無いアプローチの重要性を教えてくれていま す。それはとりもなおさず、日本人とはいったい何なのかと自らを問うことでも あります。

 さて、司馬遼太郎著の“歴史の舞台”に登場する大阪の錠前屋さんは、“アラ ブ人は明快だよ、あの連中はいいやつらだよ”“ただし手続きが決めるまでは面 倒くさいがね”、“あの手この手で値切ってくるが、決まると金払いがいい、あ の書類を出せ、この書類を出せとうるさいけれど、一旦決まったら、きちんと約 束を守るよ”と語っています。

 著者は“日本にはアラビア語の辞書も無い”“アラビア語は難しくて大変だ” “アラブ人は分からない”と語る新聞のコラムニストやアラビア学者などより、 大阪の錠前屋さんのほうが分かりやすいとのべています。

 阿部政雄先生は、大阪の錠前屋さんのように、“付き合ってみればアラブ人は いいですよ”と“ありのままのアラブ”を日本に紹介した人です。

 阿部先生は、1955年の第一回アジア アフリカ首脳会議(バンドン会議) の頃から、半世紀に亘ってアラブと日本の文化交流に力を注ぎ続けられました。 現在は日常的に国際交流、異文化交流の必要性が叫ばれています。半世紀前にア ジア アフリカ諸国に深い関心をよせ、NPO活動を孤軍奮闘実施されました。 特に“日本・アラブ通信”やブログ“アラブに架ける虹の橋”、のネットや書 籍、論文、講演等を通じ、幅広く日本人にアラブを紹介し続けました。アラブ紹 介の出版物は本屋で沢山見ることが出来ますが、グラフ社発行1989年の“ア ラブ案内”は今日でも新鮮で読者にアラブの真の姿を見せてくれます。

 1955年の第一回アジア アフリカ首脳会議(バンドン会議)には日本も代 表を派遣しました。当時の日本人の多くは、日本も含め、アジア アフリカの 国々が貧困から開放され、自立し、教育を受けられることを心から願っていまし た。阿部先生は、日本国際ペンクラブの一員として平和の促進に努力されまし た。

 私は1962年、アラブ留学が決まった時、“たぶんそれはアメリカ留学の間 違いだろう、日本はアラブからは学ぶものは無いはずなのに”と、周りの人たち はうわさをしました。日本は明治維新後、多くのことをヨーロッパから学びまし た。あの福沢諭吉でさえ、日本は脱アジアでいくべきと言ったほどですから多く の人がアジアは遅れている、だから学ぶことが無い、と植民地化されたアジアの 状況を見て思ったのは当然でしよう。40年後の今日でも日本における国際認識 の状況はあまり変わらず、アジア アフリカ諸国は未開である。遅れているとの 観念支配から脱却できていません。多くの学者、評論家、官僚、政治家、マスコ ミが持ち続けているアラブに対する偏見は今でも変わらず続いていると思われま す。

 非同盟諸国はそれぞれの戦略を駆使し、自立の悲願に向けて歩み始めました。 その結果が、1960年9月14日、ベネズエラ、サウジアラビアなど5カ国に よるOPEC(石油輸出国機構)が生まれ、現在は11カ国が参加しています。 1962年にはサウジアラビアは石油鉱物資源省を設置しました。当時私はアラ ブ諸国から春の息吹を感じていました。これからはアジア アフリカの時代だ。 何かが変わっていくだろうと私は感じました。

 ところが1963年11月23日、アメリカのケネディ大統領が暗殺されまし た。当時カイロの町に居た、アジア アフリカの学生達は、新しい世界をケネ ディ大統領に期待しただけに、多くの人々は大声をだして嘆き悲しみました。学 生達は中東和平に最も必要としている人を失い悲嘆にくれました。これからはど うなるのだろうか、と不安に思いました。

 阿部先生はそのような時代背景の中でアジア アフリカ諸国、とりわけアラブ 諸国に足を運ばれていました。“最初の訪問はシベリヤ鉄道経由だった。”“父 は、アラブの民に深く連綿と流れている文明、文化、アラブの誇りというものを また、その血の中に携えている民自身を深く愛し、畏怖の念を抱いていたと思わ れます。また、それによって彼自身のアイデンティティである日本文化、自身に 流れる血を再度見つめなおしていたとも思われます。そして、その双方が繋がる ところに歪みの無い正常な国交と平和が生じるだろうと考えていたんだろうと思 います。”と阿部先生のご遺族は申していました。

 振り返ってみるに、1948年5月イスラエルの建国以来アラブとイスラエル 間で戦われた戦争は、(1)パレスチナ戦争,(2)スエズ戦争,(3)六日戦 争,(4)消耗戦争(1969年3月〜70年8月),(5)第4次中東戦争, (6)レバノン戦争があります。1973年第一次石油危機、1979年第2次 石油危機、1980年イランイラク戦争、1989年イラク クエート侵攻、 1990年湾岸戦争、2001年イラク戦争と続きます。絶え間ない戦渦と混乱 の中で中東は時を過ごしました。アラブと関わりの多かった阿部先生は、多くの 戦争や戦闘を目の当たりにして、日本人が何をすべきか真剣に問いかけていまし た。阿部先生はそのつど平和の尊さを実感しながら日本人にメッセージ伝え続け ていました。

 1955年から今日まで、アジア アフリカ諸国は日本に平和守護者のリー ダーとしての役割を期待しています。しかしながら、アジア アフリカ諸国の期 待は大きく、日本はその期待に沿うことなく、今日まで来てしまいました。日本 が1960年代、欧米の圧力を撥ね退け、資源確保の為に石油開発及び原油の輸 入やプラント建設や日本製品の輸出に独自の道を切り開いた活力を思い起こしま す。今は、中国やインドが、エネルギーの安全保障体制をアラブと築こうとして います。

 今日、阿部政雄著、グラフ社発行1989年の“アラブ案内”を改めて見るに 著者のやさしい眼差しで、アラブに関し幅広い紹介を試み、日本人の多くがアラ ブ人と友達になることを願っている様子がわかります。

 故人の遺業を讃え、その意思を継いでアラブと日本が互いに理解し尊敬しあう 友人としてともに繁栄することを願います。 

筆者:片山 廣
アラブ イスラーム学院 顧問

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