イスラーム建築
 

【インド】
 

マスジド・デリー
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マスジド・デリー
真珠のマスジド(インド:デリー)
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真珠のマスジド(インド:デリー)
いよいよ話を最後の舞台に移しましょう。インドです。古代はジャイナ教、そして紀元前6世紀ごろからは仏教が始まり、そして紀元1世紀ごろからは、ヒンズー教が支配してきたところです。イスラーム初期の時代には、今のパキスタンまではイスラームの勢力は達していました。しかしイド亜大陸への本格的な浸透は10世紀に入ってからで、前章ですでに触れたガズナ朝が、アフガニスタンから北部インドに入ってきてからでした。

建築の上で、イスラーム様式が広まるのはさらに2世紀ほど後です。12世紀に入り、ガズナ朝を継いだゴール朝下の軍司令官クトブ・アルディーン・アイバックがデリーの街を首都として以降になります。それ以来デリーは、王朝が変わってもしばしば首都の役割を果たし、イスラーム建築の上でも主要な舞台となります。13世紀にはモンゴルの襲来から逃れるために、イランなどから多数のムスリムがデリーに避難してきた事情もありました。

そして14世紀に入ると、まず1300年、チムールは内陸アジアからデリーを陥落させ、トルコ系・モンゴル系支配の口火を切りました。しかしこの趨勢が本格的になるのは、16世紀のムガール朝樹立を待たねばなりません。その創始者バーブル(1526-30年統治)は、父親はチムール、母親はジンギス・ハーンの血統を持つという家系でした。何と言う血筋でしょう、自分の身が何世紀にも渡る歴史そのものであり、また自分が4世紀にわたるインド最長不倒の王朝を築くことになったわけです。

そしてこの王朝こそが、インドでのマスジド建築の黄金時代を作りました。アクバル(1556-1605年統治)、ジャハン・ギール(1605-27年統治)、シャージャハン(1628-58年統治)、そしてアウランゼブ(1658-1707年統治)といった大帝の名前は、聞かれたことがあるでしょう。

1.ムガール朝以前
インドのマスジド建築は、西から入ってきたイスラーム様式と従来のインド様式の混交であると結論づけられています。例えばジャイナ教やヒンズー教の寺院をガズナ朝の頃から、マスジドに造り替えはじめ、特に城砦などの石材は転用されることがしばしばだったようです。さらにはインド様式と一口に言っても、舞台は広大なインド亜大陸であり、かつまた人口密集地帯として各地方によってかなり異なる文化的な伝統が根付いていました。それに建築上の伝統も含まれますが、各地域でそれぞれ特徴が濃厚にありました。ですからこのイスラーム様式との混交振りは、実は簡単に整理できる代物ではありません。何度か繰り返し触れましたが、本書ではこの大きな流れを把握することに焦点を絞りたいと思います。

まず事始として、ゴール朝の下でデリーの街に1191-1193年に建てられたマスジドは、「イスラームの力」と命名されましたが、約30に上るジャイナ教の寺院の石材の転用ということで、その柱の上部の飾りは蓮の花のデザインが昔のまま残されているのです。ところがそのマスジドのミイザナは72.50米の高さを誇っていますが、それは円形で、外壁の周囲にはすべて縦縞模様の襞(ひだ)が付けられている、というインド固有のスタイルになっています。ただしマスジドからは独立して建てられているところは、セルジューク様式を引き継いでいるわけです。

このマスジドはその後も増築されてゆきました。そして14世紀初めのデリーの支配者アラー・アルディーン・ムハンマドは、なんと145米の高さのミイザナ構築を始めましたが、計画途中で他界したので、未完成に終わりました。しかしこの逸話は、インドの石材技術の高さを物語ることにもなります。

これと同じ頃のマスジドの遺構として知られるものに、デリーから西南350キロのアジメールの地にある、アライ・ディーン・カジュンプラー(1199年建設)というのがあります。「二日半」という意味ですが、そこで市場が立ったところからそのように命名されました。立派な建物ですが、技術は完全に従来のインド式でした。

インドの建築を語るときには、特にドームやアーチの円形を作る石やレンガの積み方が問題にされます。従来方式は徐々に石をずらせて積み上げ、円形にしてゆくという単純なものでした(持ち送り式)。しかしそれでは引力の垂直方向の力に耐えるには、すぐ限度いっぱいになり、したがって大きなホールを作ることは困難です。中東では曲面の角度を計算して最初から円形を支える部品を作り、それを隅々に活用して全体を積み上げる方式が発達しました(迫り持ち式)。これだと重力が壁面や支柱に分散されて、垂直の重力対して抵抗力が強くなり、それだけ高くて大きなドームなどが作れることになります。この中東方式は、モンゴルから逃れてきたイラン、イラクなどの技術者によってインドにもたらされ、それがやがて定着し、インド全域にも広がることになりました。それが13世紀半ばから14世紀中葉に至る間の重要な変化でした。破壊者モンゴル軍の思わぬ副 産物とも言えるわけです。インドではこの新テクニックを活用して、相当数のマスジド、墓廟、マドラサ、城砦などが建造されてゆきました。

1398年には、チムールがデリーを占領して、これで次の時代に入ります。この時代はますます中東の様式とインド古来の様式の混交が進んだときでもありました。同時に全体の傾向は、大建築時代が終わり、サイズが小型化したこと、またインドの激しいくらいの壁彫刻装飾が基本的にマスジド建築から除去されるようになったことが挙げられます。それから各地方に半独立政権が生まれたので、地方色豊かな建築様式が誕生したことも特色でしょう。西部のグジャラート方面で有名なマスジドでは、1423年に建てられたアハマバードのマスジドがあります。その頃は建築に熱心な地方政権、アハマド1世の治世下で、首都アハマバードには50以上のマスジドが建造されました。また東のベンガルについて良く知られるのは、1375年建造のマスジド・アディナの遺構です。そこでは大イーワーンというそれまではインドのイスラーム建築では見られなかったもの を、初めて採用しました。ベンガルでは川の近くでたくさん粘土があり、それから巧みにレンガを作って建設されたところが一つの特徴です。これらは地方の支配権誇示の役目もかなりあったようです。

2.ムガール朝(1526-1858年)
それではいよいよ、ムガール朝に入ります。ただにマスジド建築だけではなく、インド様式建築全体の歴史を飾る時代だけに、マスジドも有名なものだけでも数知れずあります。そのすべてを網羅することはもちろん本書の目的ではありません。ここではいくつか特徴的なもの、そしてインドのイスラーム文化への寄与度を測るメルクマールになるものを中心に取り上げることになります。

この時代の特徴は、各地方の様式の集大成だとも言われます。具体的には、ブロックやタイルの使用は限定され、砂岩や大理石といった石材が中心として確立したこと、しかし石の色彩は押さえられ、それよりも石の磨きに主力が注がれたことなどがあります。

それからマスジドが独立して建設されるよりは、墓廟中心に設計され、その一部としてマスジドが建てられるケースが増えたということなどがあります。

また17世紀の終わりごろ、それまでデカン高原を支配してムガール朝に対抗していたバフマン朝が軟化してムガール朝の宗主権を認めるようになり、その建築関係者が多数ムガール朝に仕えるようになったことも、地方色を包容するムガール朝の建築様式発達に貢献しました。ムガール朝の時期を、さらに建設大王とも言える、シャージャハン帝の以前とそれ以降に二分します。

・前半期(1526-1628年)
首都はデリーからその南東200キロにあるアグラの街に移されました。街の名前はアクバル大帝の名をとって、アクバラバードと改名され、新都では建設ラッシュに入りました。最大のものは宮殿ファーテフプル・シクリですが、もちろんマスジドも含まれ、それは宮殿と大きな庭を挟んで反対側に建設されました。赤い砂岩と白の大理石が主体の材料ですが、赤は王家のテントの色と同じで好まれ、また聖者の墓は白色と決まっていましたから、どちらをとっても特別の意味が与えられていたのでした。この宮殿は、王家の出たチムール朝様式を基礎にしながらも、全体的にはインドの様々な地方様式の集大成であると見られている。アクバルの息子ジャハンギール大帝の時には、出来上がった街の中で小型のマスジド建築が盛んになったようです。また壁の彫刻や塗り装飾はまだまだこの時期は、従来のインド趣味で濃厚なものが盛んでした。

・後半期(1628-1858年)
シャージャハン大帝の時代は、ムガール建築の最盛期とみなされます。石材も赤い砂岩は使われなくなり、白の大理石が主になりました。またアーチのデザインは頭までは円弧を描きますが、先頭では尖った形状になりました。そして何よりの進展は、様々な様式がムガール・スタイルとしてほぼ固まったということでしょう。建設事案を数多くをこなす必要からして、王宮々務内の建築業務も役所仕事として軌道に乗り、マスジド基本形としての官製版が決まったということでもあります。

彼の妻の墓として首都アグラに建てたのが、タージ・マハールです。その死去の1631年から16年間かけて、1647年に完成しました。夢を見させるようなそのたたずまいは、世界中に知られているわけですが、欧米の評価では「これがイスラーム建築中、最高傑作だ」と言い切っているものもあります。中央の墓廟はすばらしく均整の取れたドームで飾られ、その東側には迎賓館が付属し敷設され、西側にはマスジドが設けられました。廟全体の敷地の四隅には、それぞれ円筒のミイザナが建っています。建物は白の大理石で、細やかな装飾と特に最後の審判の関係のコーランの引用で埋め尽くされています。

そして何よりも、すばらしいと思われるのは大きな池を持つ前庭の設計です。これら全体で天国の様子を、そして建物自体はアッラーの王冠を表そうとしたとされています。アグラには城砦も復旧されましたが、その中のマスジドはあまりに瀟洒で、「真珠のマスジド」(1653年完成)と呼ばれるようになりました。この頃シャージャハンは首都をデリー近くに戻しています。その新都は、シャージャハナバードと呼ばれます。これでまた、新都の大建築時代(1639-48年)に入りますが、その建築設計者として活躍した一人に、アハマド・ラホーリーという人がいました。彼はタージ・マハールの主任建設師でもあり、オスマン・トルコのシナーン・バシャーのような人だったわけです。

この中でもインド様式マスジドの代表と評されているのは、1644−58年に建てられたマスジド・デリー(別名はシャージャハン大マスジド)です。これは仏教、ヒンズー教の寺院建築とそれまでのイスラーム建築の両要素の総合とも評されています。正面に3ケある玉ねぎ形のドームは、インドのターバンの形のようにも見えます。そしてこのターバン形状の小ドームは、約40米のミイザナの尖塔にも用いられています。

シャージャハンの息子アウランゼブの統治は、ムガール朝建築史最後の時期です。彼はその父親を模範にして、やはり「真珠のマスジド」(1662年完成)と呼ばれるものを首都に建てました。それは白い大理石を研磨した仕上げで、たまねぎ型のドームの頂上は蓮型の彫刻で飾られています。

また現在はパキスタンのラホールには、シャージャハン大マスジドに似せたバドシャヒ・マスジド(1674年完成)を建てました。前面全体と四隅を仕切るミイザナなどすべてが赤い砂岩仕上げになっている反面、3ケの大きなドーム及び4本のミイザナの頂上の小さなドーム計7つの球形の造形物はすべて白い大理石研磨仕上げとなっています。想像するだけでも、その色彩の映え方が目に浮かぶかと思います。

しかしアウランゼブ大帝は、デカン高原など国内の抗争に相当のエネルギーを奪われました。そして18世紀に入ると、半独立の地方の勢力がそれぞれ建築を競うようになります。しかしもちろん、それらはいずれもムガール様式を越えるものではありませんでした。

なお以上色々インド風の特徴を見てきましたが、著者のように中東から出発した者には、インドのマスジドの最大の特徴は、建物そのものというよりは、建物の周りにあるように見えます。すなわち、大きな中庭の池はもとより、緑の木々に囲まれて、いかにも水が豊富にあるという点なのです。緑に囲まれているということは、イスラームでは、天国の情景を描写する際の要素にもなっていると言うことは、本書の「その5.ダマスカスの時代」の中で触れたことがあります。インド人からすれば当たり前かもしれませんが、砂漠生活の民からすれば、なかなか贅沢なセッティングになっているわけです。

そしてそこには、砂漠の環境とは異なる風情ではありますが、礼拝に必要な静謐さと清浄さが表現されていると見られます。もちろん中東であれどこであれ、そのことが主眼であることは間違いありません。


執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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