イスラーム建築
 

【トルコ】
 

マセリミエ・ジャミィ(トルコ:エディルネ)
1.
マセリミエ・ジャミィ(トルコ:エディルネ)
スュレイマニエ・ジャミィ(トルコ・イスタンブール)
2.
スュレイマニエ・ジャミィ(トルコ・イスタンブール)
これからは、話の舞台を内陸アジア方面とアナトリア(小アジア)に移します。その主人公はトルコ人あるいは様々なトルコ系民族です。この流れの最高峰は、イスタンブールに集中的に見られるオスマン・トルコ帝国時代のマスジド建築です。ビザンチン時代からの教会建築も多分に利用しつつ、そこでは建設が進められましたが、それがマスジドの様式にも影響を与えました。まさしく文化の混交です。しかし宗教建築として見た場合には、オスマン・トルコのものは著者から見ると、強大な権力は骨の髄まで感じさせますが、静粛になり厳かな心を育んでくれるかは、疑問が残ります。率直に言って、芸術性も今一つではないでしょうか。

1.話の出だしはオスマン朝よりもはるかに遡る、サーマーン朝(875-999年)に戻ります。首都はブハーラーで、文字通りの内陸アジアの国でした。イラン系の国でしたが、トルコ人を奴隷としてたくさん扱い、中東へのトルコ民族の浸透の口火を切りました。アッバース朝に忠誠を誓って、また哲学者で医学者であったイブン・シーナーなどの輩出を見るなど、文化面でも隆盛しました。しかし当時のマスジドはほとんど残されておらず、残念ながら語るべきものはありません。

2.同様のことは、次のガズナ朝(977-1186年)についても言えます。サーマーン朝のトルコ人奴隷がアフガニスタンで独立したのが事始です。ペルシア語が公用語であったのですが、アルビールーニーなど著名な地理学者などはアラビア語で著作していました。インドへも攻め入って、最盛期にはその版図は、イラン中央部からホラズム、そしてパンジャープ地方にまで達していました。しかしながらマスジドではっきりとガズナ朝のものとして残されているもので、語るべきものは現存しません。したがってマスジドに関する話としては、その次の主要な王朝であるチムール朝から始めることになります。

3.チムール朝(1370−1507年)
トルコ化したモンゴル人の子孫であったチムールが建国、首都はサマルカンド、次いでその息子の時代にヘラートに遷都しました。時にはモスクワを、そしてインドのデリーまでを襲う勢いで、またオスマン軍に対しアンカラで勝利したこともありました。ジンギス・ハーンの大帝国をもう一度と、夢見ていたのです。

しかし支配位継承制度は、そのときの実力者が統治すべきだとする遊牧社会のままでした。そのため支配権争いがすぐに起こり、サマルカンドとヘラート、また時にはブハーラーを主要都市とする国に分裂してしまいました。しかしそれぞれが都市の発展と、学問・芸術には意を用い、特にサマルカンドでは宮廷文化が栄え、宮殿跡や墓廟、マドラサ、キャラバンサライなどの建築物も多数残されることになったのです。

マスジドの構造の大半は、セルジューク様式ですが、従来よりも単純化される傾向が顕著でした。またインドから石工技術者を多数連れてきて、さらにイランやバクーの方からも様々の技術者が集まり、当時の最高峰を行くものでした。そのためまず一見して、従来よりも高い建造物が多く、また素材に多色の大理石を豊富に用い、そのモザイク装飾も一段と映えたものになりました。ドームの造り方については、その内部を交錯する複数の張りで支えるという方式を導入したのは、この時代からだとも言われます。

これらのチムール朝の建築様式は、この後に続く大王朝―イランのサファビー朝、アナトリアを拠点とするオスマン・トルコ朝、インドのムガール朝―がこぞって模範としたと言われるほどです。イラン、トルコやインドのように、チムール朝は今日まとまった国としては存続していないので、その代弁者を失ったようなものです。そのためチムール朝の歴史的な貢献度については、建築については少なくとも相当なものだったと考えられますが、その総合的な評価は今まで十分には試みられていないのが実情のようです。

ちなみに、「その8.アンダルシア・北アフリカ」の章で、マリーン朝について、「その9.イラン」の章ではルーム・セルジューク朝についても、その建築物遺産からすると、もっと注目してよいのではないかという趣旨のことを述べました。まだまだ中東では、掘り出すべき過去の映像が埋もれたままになっているのも、その大きな魅力の一つではないかという気がしてきます。

なおチムール朝が滅びて、ロシア帝国が19世紀に進出してくるまでの間は、サマルカンド、ブハーラーやヘラートなどの内陸トランスオクシアナの地には、ウズベク族が跋扈しました。そしていくつものマスジドやマドラサなどが建造されました。しかし新たな様式と言うべきものは創出されませんでした。この時期については、ここでは割愛いたします。

以下はチムール朝の代表的なマスジドです。
・マスジド・ビービー・ハーニムはサマルカンドにチムールが建設(1398-1404年)し、今でも大半の様子が分かるほど、たくさんの部分が遺跡として残っています。またこの名前はチムールの第一夫人から取ったものですが、大マスジド・アルジュムアとも呼ばれます。高さは3米に上る石柱が480本も立てられ、ミイザナは合計8本に上りました。95頭の象がインドから石材運びのために連れてこられたという記録もあります。イーワーンで囲まれた中庭は約170米×110米で広々としていますが、礼拝堂はその割には小さかったようです。大理石のモザイク文様がいたるところに敷き詰められていますが、残されていたり復元されたものから見るとその細かさと色彩の鮮やかさが印象的です。

・マスジド・ジャウハル・シャードは、チムールの息子の妻の名前を取ったもので、イランのマシャッドに建てられ、現在もイマーム・リザー廟の中の一部として使われています。彼女はマシャッドの街にある第8代イマームであるリザーの墓廟を大改築して、シーア派の慰撫策としたのでした。高くて大きな、正門とドーム、そして塔の先までモザイク文様が施されたミイザナが特徴です。ちなみにこの婦人は相当な辣腕で、ヘラートの街にも墓廟、マスジド、マドラサなどの合体した壮大な建物を当代随一の建築家に造らせましたが、今はそのうち2本のミイザナと墓しか残されていません。

・青のマスジドと呼ばれるものが、1465年にタブリーズに建造されました。これはチムール朝とは対抗する政権が、14世紀末から16世紀初めまで西イランに創られ(黒羊、白羊と呼ばれる二つの時代に分かれるが、いずれもトルコ系連合政体)、その時代のものです。しかしこの青のマスジドの構造には、中庭がない上、中央の一番大きなドームを中心に回りに9個のドームが置かれているなど、他では見られない特徴があります。保存度は良いのですが、一部はかなり破壊されてしまいました。タイルのモザイク文様は、6色で構成され、その巧みさを超えるものはその後もついに出なかった、とさえ評されています。マムルーク朝のところでも、青のマスジドと呼ばれているものがあったのを、覚えておられるでしょうか。トルコ石の青のイメージは、中東の大空のイメージと重なりますが、彼らの性に一番合っているのでしょう。このマスジドはペルシア語では、「イスラームのトルコ石」とも呼ばれています。

4.オスマン朝(1299−1922年)
600年余りの長い間体制を維持し、最大は北アフリカ、バルカン半島、アナトリア、西アジア(イランを除く)、アラビア半島から黒海沿岸、さらに内陸アジアにまたがって支配を確立した大帝国です。その規模は、ローマ帝国やモンゴル帝国などに比べて何も遜色ないものでした。1453年、コンスタンチノープルを陥落させ、1517年には、メッカ、メディーナもその保護下に置き、ここにスルタンとカリフの両方のタイトルを冠することになりました。また1529年にはオーストリアのウィーンを包囲し、フランスのニースを攻め地中海も制覇、南はアラビア半島全域を支配下に治め、アデンの港からインド洋でポルトガルと対抗し、これで絹も香料もその伝統的な貿易路は確保しました。すでに述べたように、サファビー朝では「イスファハーンは世界の半分」と言ったようですが、その調子で行くと、オスマン帝国の首都イスタンブールはどう言えばよいのでしょうか。

イスラーム法に則った政治を目指し、通常の行政、司法の制度に加えて、別系統の権威として各地のムフティーがイスラーム法の見地から、様々な指導に当たる制度も確保されました。また人種や民族にかかわらず人材登用に努めるとともに、彼らは等しくオスマン人としての意識を共有し、そのコスモポリタンな風潮は、まさしくイスラーム共同体、ウンマに期待されるものだったのでしょう。オスマン・トルコの体制は不動であり、永遠のものとして写ったとしても、不思議ではなかったはずです。

他方、国家や社会制度など行政面での建設に加え、マスジドなどの建設はどうだったのでしょうか。もちろんこれまでの建築の技術などを継承しながらも、その独自の特徴とされる様式が次第に編み出されてきました。その主な側面に3点あります。一に、多くの例で中庭が設けられなくなったこと、二に、中央の巨大なドームの周りに数多くの小ドームが配置されること、三に、ミイザナの先端は鉛筆の先のようにとがった形に造られたことなどです。また内部の装飾は、相変わらず漆喰や木彫り、大理石、タイルなどを様々に使い、伝統が継承されたようではあっても、全体としては内部装飾はあまり頓着されなくなったことも挙げられます。欧米の研究は、イラン同様オスマン・トルコについてもかなり詳細に進められているのは、同国が欧米に向けて開放的な姿勢を取っていたことの反映だとすれば、それもイランに似ていることになります。

それではいくつかの主要な事例を見てみたいと思います。

オスマン・スタイルが確立されるまでには、いくつかの発展の過程がありました。それらのマスジドの諸例は、初期の首都ブルサやその次の首都でギリシア寄りにある街、エディルネにいくつも残されています。そしてそれらは、既存のビザンチン様式にも影響されたのは当然です。

そんな中、ウルー・ジャーミゥは、オスマン・スタイルとして初めてのものだとされています。ブルサの街に、スルタン・バヤジッド1世の命で1400年に建造されました。そのしばらく前に、ハンガリーに対して大勝したときの戦利品がその資金源になったとされています。このマスジドは、12個のドームを持っています。

またこの時期で代表的なのは、エディルネに1437年に建造され始めた、3バルコニーと呼ばれるマスジドです。この名前は一番高かったミイザナには、3段階の見晴台が付けられていたところからきました。尖塔、モザイク装飾、そして中央の巨大ドームと周りの多くの中小ドームといった、オスマン様式典型の品々が揃っています。

オスマン・トルコは1453年、イスタンブールを陥落させるとともに、その街を直ちに首都として定めました。その後、偉大な建築家シナーン・バーシャー(1588年没)が輩出すると様相が変わるので、彼の活躍した時代を挟んで、前後二期に分けて考えます。

前期で建築に熱心だったのはトプカピ宮殿を造って有名なスルタン・メヘッメド2世(1444-81年統治)ですが、「信仰」と命名された、マドラサ、病院、マスジドなどを合わせた合同施設を建てました。ジャーミゥ・アルムハンマディーヤ(1463-69年建造)がその中に含まれていますが、これは上に触れた、3バルコニーのマスジドと瓜二つです。

もう一人建築熱心なスルタンを挙げるとすれば、その息子であるバヤジッド2世(1481-1512年統治)です。彼も各地で合同施設を建設し、マスジド・アルスルターン・バヤジッド(1501-07年建造)はイスタンブールのメルクマールになっています。やはり小ドームの存在が目立ちますが、これはビザンチン教会の影響だとされています。しかしこの時代には、これらドームは外見上すっかり定着しているように見える割には、外見上の効果以上には、マスジドの一部としての本当の用途は確立されていないとも見られています。

天才は時代の産物かもしれません。そう思わせるのが、オスマン・スタイルを確立したとされる建築家シナーン・バーシャーの出現です。アナトリアのキリスト教徒の出自ですが、1538年には、宮廷建築主任担当、要するに宮大工の頭に任命されました。彼の大きな初仕事は、スルタン・スレイマーン(1520-66年統治)の早死の息子を祀るためにイスタンブールに合同施設を造ることで、その中に、マスジド・シャー・ザーダ(1543-48年建造)が入っています。直径19米のドームと、4個の半ドーム、4個の小ドームを持っています。前時代とは打って変わり、これはもう威圧感に溢れたオスマン・スタイルそのものになっています。この時期には、ジェルサレムの岩のドームの外側のタイル装飾にも手をつけています。岩のドームで、今日見られるほとんどすべてが、彼の修復作業のお陰と見られています。

そして同じくシナーンの建造に係り、オスマン・スタイルの華とされるのが、イスタンブールを圧倒する合同施設、特にそのマスジドであるジャーミゥ・アルスレイマーニーヤ(1550-56年建造)です。それを支える柱の花崗岩を見つけるのに一番時間を掛けたそうですが、それらは市内の旧宮殿、レバノン、エジプト、そしてイスタンブールの丘から持ちよられたそうです。あまりの規模の大きさ(ドームの直径は約26米、その高さは50米)のために、内部の装飾はむしろ押さえ気味にならざるを得なかったとも言われています。

他方シナーン自身がその技術の集大成とするマスジドは別にあります。それはエディルネの街のセリーミエ合同施設(敷地は190米×130米)ですが、その中にあるジャーミゥ・アルセリミーエ(1570-75年建造)は、街の中のどこから見ても際立っています。細いミイザナの高さは抜群で、71米、それが4本ありますが、すべてに3段階のバルコニーが付けられました。そしてそのドームの大きさは、ついにイスタンブールのアヤ・ソフィア寺院のものを超えたと言うことで、シナーンの喜びの声が記録に残されています(但し最近の計測ではそうでもない様子)。全体はベージュ色に包まれていて、ドームの中腹と各ミイザナの先だけは被されている鉛で灰色の配色となって、何がしかシックな雰囲気を保っています。確かに客観的に見ても、こちらの方が前のジャーミゥ・アルスレイマーニーヤよりは、明らかにまとまりが良さそうです。シナーンの銅像がこのマスジドを望む地点に建てられていますが、ただどうしたことか、シナーンの遺体はここではなく、イスタンブールのジャーミゥ・アルスレイマーニーヤの近くに埋葬されました。その後彼の弟子たちが多数続き、エジプトのマスジド・シナーン・バーシャーやマスジド・ムハンマド・アリーに見たように、彼らがイスラーム諸国各地でその独特の様式を伝播することになります。

それに比べてイスタンブールでは、羅針盤を失ったようです。時あたかも17世紀に入ると、ヨーロッパの優位が各所に散見され始めたこともあります。アハメッド1世(1603-17年統治)の時には、それまでのように戦利品で建築費を賄うことは難しくなってきました。伝統的な資産寄進制度(ワクフ)だけではとても従来の規模の工事は望めません。ですから彼が、30年間行われなかったマスジドの発注をしたときには、素材はトプカピ宮殿などから持ってこられたものもある始末でした。またこの風潮は、マスジド・アハメド1世(1617年完成)のたくさん並んではいるが、行き所のなくなったような小ドームの、勢いのなさにも表れているようです。

18世紀にはいると、ヨーロッパの華美な装飾で知られるバロック・スタイルが導入されます。1755年、やはりイスタンブールで完成を見た「オスマンの光」(ヌール・オスマーン)と呼ばれるマスジドのドームは、直径24米、高さ43米というとてつもないサイズです。装飾全体はバロック様式ということですが、構造的にはこのドームが建物全体とほぼ同じ幅を占めているので、マスジドはドームと二本のミイザナのみという形になってしまいました。シナーン・バーシャーの完成させたバランスと実用美は、部分の誇張によってグロテスクな形状を帯び始めたのです。このように時間の経過とともにバランス喪失の結果を招く諸例は、他でも見られる現象です。一時代の終わりを告げていると言えば、十分でしょう。

オスマン・トルコのマスジドを宗教建築としてみた場合には、もう一つ敬虔な心を掻き立てる風情のものではなく、いかにも権力誇示型だということは、この章の初めに触れました。著者などは、イスタンブールのマスジドに座ると、何か倉庫の中にいるようで、とても心静かな礼拝とは感覚的に結びつきません。まして耳を劈くようなアーザーンや説教の声を聞くと、早々に失礼したくなるのが普通の反応でしょう。

ここで想起させられるのは、ギリシア人とローマ人の対比です。芸術感覚横溢のギリシア人の後に来たローマ人は、巨大建築物を得意とした大工さんではあっても、美の機微を噛み分けるセンスに欠けていたことは、周知の事実です。大工は大工でも、本当に魂の入った宮大工ではなかったのです。破壊力の割にはたいしたものをほとんど残さなかったモンゴル人よりは余程ましですが、オスマン・トルコの波長はローマ人に似ていたと言えるのかもしれません。

しかしこれは、シナーン・バーシャーが首都から離れたエディルネで、最後に見せた穏やかな心境の変化を説明することにはなりません。少し短絡的で、情緒的な表現ではありますが、やはり首都での支配者の権力誇示欲が、信徒の心を棚上げにするような災いをもたらしていたと、結論したくなります。いずれにしても以上の観察は、トルコ人の信仰心を問題にしているのでないことは言うまでもありません。それがなければ、そもそもあのような建築熱が湧いてくることはなかったでしょう。そしてオスマン・トルコの支配者は歴代に渡り、メッカ、メディーナの両聖地の擁護と補修にも大いに意を用いたことは知られている通りです。信心の事柄は、世俗的な要求も勘案しなければならない、建築様式とはまた別の世界だと思われます。

またもう一点強調しておきたいことは、アラブ人から見た場合には、オスマン・トルコのマスジド建築についての評価は決して低いものではないということです。あれだけ壮大、厳粛なものを世界中に注目される形で表現してくれたことは、大変なプラスとして見られています。さらにはイスタンブールのアヤ・ソフィア寺院などを、そっくりそのままマスジドに造り替えたことなどは、爽快感も伴って見られているとも思われます。これも素直な心情なのでしょう。

執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


(→バックナンバー
(→週刊アラブマガジンのトップ


 
↑UP↑

前に戻る


アラブマガジンへもどる

 

アラビア語カフェ | アラブ イスラーム学院 | サイトマップ | ヘルプ



2005年 アラブ イスラーム学院