イスラーム建築
 

【イラン】
 

マスジド・アルジュムア
1.
マスジド・アルジュムア
マスジド・アルイマーム(イラン:イスファハーン)
2.
マスジド・アルイマーム(イラン:イスファハーン)
今度は舞台をイランに移します。イランと言えば、あの澄んだ青色を特徴的な色彩に持ちつつ、燃え上がるような勢いのエネルギーを秘めた、イスファハーン、ナイーンやクムの絨毯が目に浮かびます。そのイメージは、マスジド建築にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。

マグレブについて見たような、繊細で瀟洒な感覚は、色彩感覚に訴えるよりは、実に多数の装飾全体を通して、細やかに編み出される光と影の交響曲が、見る人の目に訴えてくるものでした。それと比べれば、イランの場合ははるかに色彩中心と言えるでしょう。すべての芸術がそうであるように、複雑な色彩のシンフォニーは決して不協和音を許さず、各部分はそれぞれの美しさを主張しつつも、総合としての調和と均整の美を提示していると見られます。でもそれも中東のあの輝く太陽光線に照らされてはじめて、さんさんと訴える力を発揮して来るように思われます。このようにむしろ結局のところは、両者に共通している側面を強く印象付けられます。それは、太陽の光を全面的に活用して、アッラーの別称「天地の光」(コーラン御光章35)を、視覚を通じて信者の心に植え付けようと努めていると言うことです。そしてそれを天賦の能力が具現化し、人類史上比類稀な産物を実現しているということです。

さてアッバース朝下のイスラーム時代に入ってからだけでも、現在のイランの地を巡っては、数々の王朝が往来しました。東西の要路にあることからくる、宿命なのでしょう。栄華盛衰の一つの絵巻を見ているようです。イランを主要な活動の舞台にしたという意味で、この章では、ブワイフ朝、セルジューク朝、イル・ハーン国、サファビー朝、そしてカージャール朝を取り上げます。イランの一部を支配下に置いたチムール朝などは、次の章で取り上げます。イランに話が移ると、かなり欧米の研究書が詳しくなります。色が派手になり絨毯などで伝統的になじみのあることと、あるいはホメイニー革命の前の半世紀の間、イランは欧米寄りの態勢であったことから、アクセスがより容易であったことなどが要因でしょう。

1.ブワイフ朝(932−1062年)
アッバース朝に任ぜられて地方政権の大アミールに就任するという二重構造をとったのは、このブワイフ朝も東アラブのマムルークと同様で、この体制は次のセルジューク・トルコの下でも継続されることになります。ブワイフ朝はアラビア語でしたが、シーア派でした。945年にはバグダードも占領しています。なおこれに先立つ、サーマーン朝(875−999年)、ガズナ朝(977−1186年)の建造物では、ほとんど残されたものはないので、それらはここでは飛ばすことになります。

この時期取り上げるべきマスジドは、イスファハーンの近くにあって、絨毯でも有名な街、ナイーンにあるマスジド・ナイーンです。これはもう遺跡になっていますが、正方形の中庭を巡って、多数の信者を礼拝に迎えられるような設計になっています。また壁面の装飾は格別です。しかし詳しくは、この時期の他の遺跡同様に、今後の調査待ちです。この王朝はシーア派として、イラク南部のナジャフやカルバラのマスジド、それから前述のイラク北部のサーマルラーのマスジド増改築にも努めました。また第7代と第9代のシーア派イマームを合わせた形で奉じた、バグダード市内に今も威容を誇る、アルマシュハド・アルカージマインも改築、完成しました。

2.セルジューク朝(1038−1194年)
アッバース朝から史上初のスルタンの称号を許されたセルジューク朝は、最盛時にはシリアからペルシア湾岸までの広範囲な版図を実現しました。またバグダードは、1056年に占領しましたが、その大半の時期の首都はイスファハーンでした。ペルシア語が宮廷用語になっていましたがスンナ派で、高名な詩人オマル・ハイヤーム、神学者アブー・ハミード・アルガザーリーなどが輩出するほど、文化の隆盛期でもありました。

この時期のマスジドとして、代表的に扱われるのは、イスファハーンのマスジド・アルジュムア(金曜マスジド)です。644年にその萌芽は創建されましたが、現在の遺跡は高名な大臣ニザーム・アルムルクの時、1073年に造られたものです。その後、イル・ハーン国になっても増築されました。縦150米の長さで、中庭を巡る4方向はすべて後代に追加された大部屋(イーワーン)の構造になっています。極めて建造の歴史が長く複雑なのは、カイロのアズハルと同様ですが、アズハルと異なりこちらの場合は細かな記録もなく、どの部分がどのような背景を持つのかさっぱりはっきりしないということです。南北にあるドームについてさえ、種々の議論があり、まだまだこれからの研究待ちのようです。ミイザナは円筒になっていますが、これは以降広くイランで採用されていく形状です。

イランで創始されたイーワーンといわれる大部屋は、マスジドと一体化してこの時代に普及するようになりました。これは従来、礼拝堂や中庭を取り巻くのは回廊に過ぎなかったのですが、それを奥深い部屋造りにしつらえ直したということです。その背景ははっきりしていませんが、ササーン朝などのイスラーム以前の伝統に結び付けて考える研究者もいます。しかしどうしてこの時期にマスジド建設と結びつくかたちで、それが全面的に復活され発達したのかは、まだ判明していません。いずれにしても、この時代のほかのマスジドの諸例にも多く見られます。そしてこれこそマスジドの構造上、イラン様式の最大の特徴として考えられるようになりました。他の例としては、カズウィーンやアルディスターンの金曜マスジド、それからバグダードで知られるアルマスジド・アルスルターニーなどがあります。

やがてこのセルジュークの一部の王族がアナトリアに入って、コニヤを首都とするルーム・セルジューク朝(1077−1308年)を樹立しました。これがその後のトルコ族の小アジアへの浸透の先駆けとなったわけです。

アナトリアの石材は上記のイランのレンガよりも、はるかに硬くて耐久性がありました。それが両者の保存度に大きく影響しています。トルコのムスリムにとっては、アナトリアへの進出は、アメリカの西部開拓期のような模様を呈していたのでしょう。どしどし流入してきては、その足跡を多数の石造り建築物で残してゆきました。この時期のマスジドの様式は、イランのようなイーワーン様式は主体ではなくて、むしろオスマン・トルコ様式の先駆けと見られる諸点が多く見受けられます。その一例は、ミイザナの形です。展望台は一つで、塔の先は鉛筆のようにとがっていますが、これはこの後、オスマン様式に定着してゆくものでした。

またセルジューク朝支配の弱体化とともに、地方で様々な分裂活動が盛んになるわけですが、12世紀の半ばから1世紀間ほど、このような分裂した、セルジューク地方諸政権乱立の時代が、主にイラク・シリア方面で展開されました。これらはアターベクの総称で呼ばれています。建築事業が最盛期を迎えたのは、ヌル・アディーン・マハムード・ブン・ザンギー(1146−1173年)の治世で、彼の名前を冠したマスジドがイラクのモースル(ジャーミゥ・アルヌーリー、1173年建設)、シリアのダマスカス(マスジド・アルヌーリーヤ、1167年建設)や北部のハマー(ジャーミゥ・ヌールッディーン、1162年建設)に散在して残されています。モースルのマスジドのミイザナは、東の方向に少し傾いています。56米の高さに耐えられなくなったのですが、イタリアのピサの斜塔のようで、見た目に少し滑稽な感じが印象的です。そのせいか現地では、愛称で「ラクダのこぶ」とも呼ばれています。

3.イル・ハーン国(1258−1353年)
ジンギス・ハーンの孫フラグが建国、元朝の宗主権を認めつつ、周辺のチャガタイ・ハーン国と対決し、またマムルーク朝との抗争ではローマ教皇とも手を結ぶなど、外交巧みな経世振りを発揮しました。モンゴルという異民族支配ではあったのですが、イル・ハーン国がイランの国土を一つにまとめ、それによりイラン人の民族意識が覚醒されたことは、次のサファビー朝の礎石になったとも言われます。首都はタブリーズに置かれました。そしてその第7代君主ガザン(在位 1295−1304年)がイスラーム信者となるに及んで、マスジド建設に拍車が掛かることになりました。

面白いことに、モンゴルは支配民族になっても、しばらくの間はテント生活を好んだということです。ですから他の時代なら当然あるような、宮殿や城砦建築も増改築が主で、新規にはあまり行われませんでした。さらにはモンゴルの伝統では、墓は人に知れないように隠す習慣があったということです。ですから、君主ガザンの治世までは墓廟建設もスーフィーの聖人のものを除いては、比較的に下火だったと言えます。

タブリーズ郊外に君主ガザンは、墓廟だけでなく、それにマスジド、学校、病院など総合的な施設マドラサを建造させましたが、それはガズニーヤと呼ばれる壮大な街の建設に匹敵するものでした。モンゴルの伝統からすれば、まさしく大革命と言うべき転換を示したわけです。その弟のウルジェイトも同様で、さらにピッチは高まり、それよりも大規模なものを狙い、スレイマーニーヤと呼ばれるその街を都にも定めるに至りました。すでに見たようなカイロの立て込んだ市街地とは異なり、郊外に好きなところを選んで設計に当たれたわけですから、マドラサの発想もおのずと異なってきたのでしょう。

さてこの時期の建設になるマスジドとして知られるものに、マスジド・タブリーズ(1322年建設)があります。異様なほど高くて殺風景な外壁は、気のせいか万里の長城を思わせます。ただし内面はタイル装飾だったそうです。またドームの内壁も見上げる人を天空へ誘い込むばかりの、巧みな装飾です。この他、イラン中央部のヤズド(1324年建設)、テヘラン南部のヴァーラミーン(1326年建設、現在は再建されたもの)の金曜マスジドが知られています。いずれも基本的な構造としては、セルジューク様式です。

そして各地で見られる光沢のあるタイル装飾こそは、イラン趣味の最たるものだと言えるでしょう。それは肥大化してきた正門、ドームなどを飾るのに必要であったと同時に、逆にタイル装飾を見せるためにそれらが巨大化してきたとさえ思えます。各地の仕事振りや仕上がりを比較すると、あまりに似ていることが指摘されています。同じタイル職人のチームが各地を回って作業に当たったのではないかと、推察されています。

またバグダードにあるマスジド・アルフラファーウ(カリフの複数形)も挙げておきましょう。10世紀初めの創建になるこのマスジドは、かなりの荒廃振りを示していたのですが、1280年フラグの息子の命により、改装されました。当時のミイザナは33米あり、市内随一の高さでも知られ、通称「カモシカ市場の光塔」と呼ばれてそのまま残されていたのですが、今度のイラク戦争でどうなったのか心配されます。

なおイル・ハーン国の時、ナジャフの第4代正統カリフ・アリーの墓廟やカルバラーのアリーの息子フセインの墓廟が改装されました。これらはシーア派が神聖視するところであることは言うまでもありません。

いずれにしても、相次ぐ地震、そして侵略や破壊により、イラン西北部を除いては多くの建造物が失われました。これはセルジューク時代のものと同じ運命だったと言えます。

4.サファビー朝(1501−1736年)
この王朝は、シーア・12イマーム派を奉じて建国されましたが、この派が今日まで続くことになります。首都は当初タブリーズにあり、その後カズウィーンに移り、1586年以降はイスファハーンが首都になりました。17世紀のサファビー朝全盛期には、「イスファハーンは世界の半分」とまで言われるようになりました。この時代はあらゆる意味で、今日のイランの文化様式を確定し、その爛熟期を築いたと言えます。

マスジドの正門も外壁も大きく高くなり、ドームもでっぷりと太り、円筒のミイザナとともに、それらは最高級の素材で飾られました。建物全体が一つの工芸品になったと言えそうです。それは色彩と文様の祭典とも言えます。この「ド派手振り」に加えて、数の上でもマスジド及び墓廟はもとより、宮殿、キャラバンサライ(隊商宿)など建築熱はますます高まったようです。少し皮肉のように聞こえますが、この時期のマスジド建築にはセルジューク時代に比べてそれほど構造的に新規なものはなく、むしろ従来のものを踏襲したに過ぎず、それを装飾芸術がカバーしていると言う風に評する人もいるくらいです。

マスジド・アルイマーム(当時はマスジド・シャーと呼ばれた)は、イスファハーンにおいて第5代君主アッバース1世(1588−1629年統治)の命により、1612ー1630年に建設されたこの時期の代表的なものです。シャー広場を臨む形で建造されましたが、そのシャー広場そのものが、北京の天安門広場か、パリのコンコルド広場のように、国家の威容を示すために作られたものです。そこに建造されたマスジドは、いわばパリの凱旋門かそれ以上に国威発揚を目的としていたことは、言うを待ちません。

その期待にたがわず、堂々たる正門、まるで宇宙から飛んできたようなふっくらとした形のドーム(外側の直径25米、地上からの高さは52米)、そして33米の二本の正門のミイザナとそれより高い礼拝堂の前の別の二本のミイザナなどは、すべてトルコ石のような青色を基調としたタイル装飾で包まれています。それが大空の青色に融けてゆくようです。国家の権威を誇示すると同時に、その美的な感覚に人を酔わせるものがあります。そしてこのマスジドは、イラン建築の典型をなしていると言えるというのが、一般の評価です。

中庭の中央を占める大きな池とそれを取り巻くイーワーンへの装飾壁の様子は、まさしく天国を思い起こさせる意図で造られたと想像に難くありません。この静寂さは、後で見るインドのタージ・マハールに通じるものがある、と感じるのは著者一人ではないでしょう。また中央の大きなドームのほかに、周りに小さなのが8個ありますが、そのよりこぢんまりしたスペースは、冬の寒い時期に使われたそうです。このマスジドはその中に、二つのマドラサも合わせ持っています。なお礼拝堂に入る門の周りに、スルスという書体で書かれた文字があります。その装飾効果も相当なものですが、書道家は次に述べるマスジドと同じアリー・リザーという人でした。

さてそこで次のマスジドですが、同じシャー広場に面した形で、マスジド・アルシェイフ・ルトフッラーがあります。建設は1602−1618年です。上記のマスジド・アルイマームを建てたアッバース1世の義理の父親のための個人用のマスジドだったようで、そのためかサイズは少々小さめで、中庭やミイザナは付いていません。しかし装飾美は、どこに出しても見劣りしないものです。大きなドームの基調は暖色のベージュ色で、それ以外のところが寒色の澄んだ青色基調になっているのとうまく対比され、堂内の文様はきわめて多くの面積が文字で埋め尽くされているところも独特です。マスジド建設に携わった人たちの名前などは、壁面の建築縁起文に残されていることが多いのですが、このマスジドの文字を書いた書道家は、アリー・リザー・アルアッバーシーという人だと記録されています。その人はどんなに誇りを感じながら筆を進めたのかと、思いが馳せられます。

以上二つのマスジドともその建物の正面は、それぞれシャー広場にまっすぐ直接に面しています。しかし広場はそばの川に沿って、西側に少し傾斜する方向で作られています。ですから、二つのマスジドの礼拝堂のミフラーブを南に合わせるために、正門をくぐるや否や、少々カーブをつけて斜めに曲がってからマスジド本体に入るように設計されることになりました。マスジド建設はあくまで、キブラ中心の発想であることが良く分かるかと思います。

また双方ともですが、構造的な見地からは何といって新規の創意工夫の跡は見られません。4つのイーワーンとモザイク文様という、それまでの様式を完成させたということでしょう。しかしその規模の大きさと、完成度の高さから、イラン様式を歴史上、人類の一つの資産のレベルにまで引き上げているといっても過言ではありません。

なお以上のイスファハーンのように中央広場に面してマスジドを建設する事例は、イラン各地でも模倣されるようになりました。しかしここで読者の方々が、大都市の巨大建築の話ばかりを聞くことになり、それ以外には存在しないという誤解を持たれる恐れを感じます。あるいはそれらがいくら立派で代表格とはいっても、大上段に構えて力の入りすぎた感のある大型マスジドばかりに、そろそろ辟易する人がおられることも想像できます。

そこで、小ぢんまりとしてはいても保存度も良くて、評価の高いものを一つ挙げておきましょう。それは1766年に建築が開始された、シーラーズのマスジド・アルワーリーです(完成年不詳)。この地方都市はもちろん絨毯でも知られますが、その微細な感覚がマスジド装飾にも活かされたのではないかと言いたくなります。その壁面の文様で、蔦に絡まった壷に入った花文様などは、ヨーロッパの織物にもほとんどそのまま取り入れられたものです。ですから、どこかでその柄は見られた人も少なくないのではないでしょうか。

それからこの頃、マスジド建築だけではなく、小ぢんまりとした礼拝堂の建設も好んで行われていました。これらは、マスジドではなく、ムサルラー(まさしく礼拝所)と呼ばれるものです。イーワーンが一つと、囲いのスペースであるマクスーラが一つ設けられるという、シンプルそのものの構造です。しばしばイスラーム上の、祭事にも使われたとのことです。ですから巨大建築だけではなくて、日常的な信徒の需要をそれなりに満たすような努力も同時並行的に進められていたということを、確認しておきたいと思います。

5.カージャール朝(1779−1925年)とそれ以降
イランの地は、またまたこのトルコ系の王朝に取って代わられました。時あたかも帝国主義時代であり、北からはロシア、南からはイギリスの侵略を受け続け、国内外とも混乱の内に崩壊の運命をたどりました。首都は現在と同じ、テヘランに定めました。

イル・ハーン国の間は、建築を通じる表現は比較的には抑制されていた時代であったのが、サファビー朝になり逆に貯めていた能力と表現欲求が爆発したようなものでした。ところがその爆発が今度はあまりに決定的であったため、その後の創作意欲がなえてしまったと言うのが、カージャール朝以降です。あれだけの強い表現パターンを見せ付けられると、それを超えるのは難しく、まして異なる文化パターンを編み出すのは、異文化による征服でもあれば別ですが、普通には期待薄です。ましてや短時間には不可能です。カージャール朝とそれ以降の時代は、そのことを裏書しています。

1925年、パフラビー朝が樹立されましたが、文化的嗜好として徐々にイスラームより以前のペルシア的伝統への傾斜を強めたのには、そのような新文化創出への焦りに似た気持ちがあったのかもしれません。新文化は、それまでもそうであったように、新体制を印象付ける、強力な政策上の武器でもあるからです。古代の「王の中の王(シャーハンシャー)」の称号を使用するようになりました。また近代化の旗印の下、アメリカとの全面的な同盟関係を推進し、西洋文明を強引に導入してきたことは、国民の反発を呼び、結局1979年のホメイニー革命の導火線となったわけです。いわゆるイスラーム原理主義を地で行く格好になったわけです。このことがマスジド建築にどのような影響を及ぼしてゆくのでしょうか。いまだそのページは開かれたばかりです。

執筆:アミーン水谷
アラブ イスラーム学院研究員


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2005/10/18 10:54:38;16412;f6756zt823f;RETR;ok;/htdocs/j/maqha/magazine/architecture/index.htm