アンダルシアの歴史
 

【イスパニアにおける勝利】



親愛なる読者の皆さん:
イスパニアにおけるイスラーム開放の物語は、当地の探検調査のための小隊派遣 の試みから始まります。

かつてイスパニアは、アラブ・イスラーム王朝となった北アフリカと直結してい ました。この両地域は地理的に接近しており、両者を隔てるものは、互いの影響 を妨げないわずか一つの海峡にすぎませんでした。その互いの強い影響は、新旧 さまざまな歴史の場面を通じて続いてきたものでした。

当時北アフリカの総督はムーサー・ビン・ヌサイルでした。ムーサーは最も偉大 なムスリムの英雄の一人であり、北アフリカにおいて決定的な役割を果たしまし た。彼は多くのベルベル人にイスラーム改宗への道を開き、彼らの多くがムー サーの軍隊の兵士となりました。

そして彼らの中から数々の偉大な指揮官が現われ、それはアラブとベルベルとの 関係において最良のものでした。最も偉大なイスラーム開放であるアンダルシア の開放において、ベルベルの指揮官たちがアラブとベルベルの兵士たちのトップ に立って指揮したのでした。

それらベルベルの指揮官の中に、その後タンジェの知事となったターリク・ビ ン・ズィヤードがいました。ターリクはモロッコにおいて、(ムーサーの指揮か ら)独立してムスリム軍の指揮をとりました。ターリクはセウタ開放を何度か試 みましたが成功せず、そのため当地におけるローマ帝国の総督との平和協力に道 を求めました。

前回お話したように、その頃ゴート王国の国王が殺害され、王子たちは離散しま した。そしてセウタ総督ジュリアン(ユリアヌス/フリアン)とゴート王国の新 しい王ロデリックとの関係は悪化していました。

そこでセウタ総督らは北アフリカのアラブに助けを求め、イスパニアへの進出を 呼びかけました。しかしアラブは、その新たな試みへの情熱を煽る者を必要とし てはいませんでした。彼らはもともとイスラームによるイスパニア開放を望んで いたのです。

そしてターリクは、北アフリカ総督ムーサー・ビン・ヌサイルとこの件を協議 し、実際にイスパニアへ向かいました。ターリクはイスラームとムスリムの歴史 の中で、最も大きな役割の一つを果たした指揮官でした。ムーサー・ビン・ヌサ イルは、情熱と希望と信仰に満ちた指揮官の選出をよく心得ており、彼はターリ クに、戦況に応じた采配の自由を与えたのです。ターリクと彼の兵士たちは、堅 固な信仰とイスラームの教えへの忠誠を証明し、船で海峡を渡りました。その船 はアラブのものでもベルベルのものでもなく、セウタ総督のものでした。

ムスリムたちが渡ったジブラルタル海峡(ジャバル・ターリク海峡)

ターリクは自分たちを対岸へと運んだ船を焼き、教友たちの強い意志を鼓舞しま した。そして彼らに信仰の強さと自己犠牲を求め、勝利か、死と敗北かの選択を 迫り、その場面を歴史は語り伝えています。彼らの人生においては勝利の他に望 むものはなく、死による以外には敗北への弁明は何もありませんでした。

そして実際、西暦711年7月19日―ヒジュラ歴92年ラマダーン月28日、 ジブラルタル近郊のワーディー・ラッカ川(グワダレーテ川)近くのアンダルシア の地で、戦いは繰り広げられました。ムスリム軍はその戦いで偉大な勝利を収 め、国内の敵たちもムスリムに従い始めました。こうしてムスリムはイスパニア において勝利を収めたのです。

読者の皆さんに感謝しつつ、次回はアンダルシア開放の話でお会いすることをお 約束します。それではまたお会いする日まで。

筆者:リハーブ ザフラーン

                

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