アラブとの30年 その2
 

【イラク不法滞在】
 

はじめに

2004年4月、日本人3名のボランテイア活動家がイラクで人質となり、更に2人が拘束されました。5人全員は無事に解放されました。しかし悲しいことに二人の外交官に続き、その後二人の邦人が犠牲になりました。中東に平和を願う一人として、深い悲しみを覚え、故人のご努力に深甚なる敬意を表し、心からご冥福をお祈りいたします。
これからも、中東は厳しい状況が続くでしょう。中東に平和を、と1956年のスエズ戦争の頃から思い続け、また長い間、企業の一員としてアラブ諸国の建設に従事した私にとって、日本人の犠牲は、つらいことです。(平成16年6月7日記述)

悲劇は突然起きます。13年前の湾岸戦争を今思い出しています。

その時私はバクダット事務所の責任者として、現地職員と一緒に、業務に没頭していました。二週間の短期出張が終りバクダッドから日本に戻る予定日が1990年8月2日でした。正にその日の朝、イラク軍がクエートに侵攻し、湾岸戦争は勃発しました。帰国したのは8月27日でした。2日前に訪れたイラク人が、「おびたただしい数の戦車が南に向かっている。」と言ったことは真実だったのだと、そのとき解りました。

1990年8月2日、朝8時、電話で空港に確認すると、「総ての国境が閉鎖され外国人の出国は不可能」でした。その頃はホテルのスイートルームを事務所として使用していました。フロントからすぐに降りてくるようにと電話があり、急いで受付に行きました。「事務所を閉鎖し、直ちにホテルから退去せよ」、と当局からの命令です。「一体何処に行けば良いのか」と、質します。部下のイラク人も「これは命令、素直に従うように」と目で諭すのみです。

事務所のテレビは勇壮な音楽を流し続けます。「クエートは開放された。」さて困った事だ。ホテルに滞在することも許されず、帰国も許されず、一体何処に行けばいいのか。命令に従い、バクダッドを離れよう。南は避けよう。結局同僚Iが工事を指揮している北部の顧客を頼り移動する事にし、急いでスーツケースを纏めました。タクシーで3時間か4時間、とにかく命令に従い、首都を離れました。

顧客のスタッフは和やかな雰囲気で迎えてくれました。そこの製油所で、日本人同僚2名が工事の監督をしていたので、ゲストハウスを提供されました。状況が落ち着くまで、しばらく泊めてもらうことにしました。「まあ心配するな、早晩帰国できるよ」と所長は慰めてくれました。「日本人は友人だから」と。

事態を確認する為、同僚と3人で朝昼晩、時間があればいつもラジオジャパンを聞いていました。どうなるのか、先が読めません。
しかし、事態は次第に悪化の方向に向かい、現地の工事業者もこの地帯が、連合軍の爆撃の対象になるだろう事を予測して、仕事の継続を嫌うようになり、やがて現地の作業員は誰も来なくなりました。顧客も我々日本人をもてあますような感じになりました。

そんなある日、「バクダッド市街からの退去命令は撤回され、外国人はホテルに戻ることが許された」という情報が伝えられました。同僚二人を残し、急ぎバクダッドのホテルに戻りました。本社からの指示は「速やかに全員」帰国せよ、でした。その指示のあとは、本社との電話連絡もファクスも自由ではありません。とにかく3人が出来るだけ早く、無事に帰国する事が、課せられた使命です。

緊張の為か、暑さのためか、身体の調子が急激に悪くなりました。困ったことに手持ちの血圧降下剤が切れていたのを忘れていました。病院で治療を受け、処方箋をもらいました。指定の薬を求めてあっちこっち歩きましたが市内の薬局には処方箋の薬は無く、替わりに買った薬が症状に合いません。目まいが激しく困り果てました。ここで倒れるわけにはいかない。いつ帰国できるかも判らない。
まだ通信手段が生きているM社の支店を通じて日本の本社の診療所から、薬を急遽送ってもらう事にしました。8月のバクダッドは暑く、50度の日射の下を歩くのはこたえます。

泊まっているホテルからは欧米人の客が次第に姿を消していきました。外国人が何処かに連れ去られているに違いないと、もっぱらの噂でした。次はどこの国籍か、日本人は大丈夫か?不安が募ります。朝食のビュッフェのメニューの品数が、極端に減りました。卵が消えました。夜中に無言の電話が鳴ります。面識のない日本人が一人尋ねて来て、お互いの安全を守るために同じ階に集まり、部屋を離れるときは居場所を教え合うことにしました。

何時、どうすれば、日本に戻れるのか、四六時中思い悩みます。日本の家族や、本社の人はどんなに気を病んでいるだろうかと思うと、やりきれません。連絡手段が断ち切られ、状況を伝える事は出来ません。気晴らしに暇を見つけてはチェコ人とホテル内のコートでテニスをしました。チェコからは女性の技術者も含めて大勢が働いていました。本国には室内テニス場が町のいたるところにたくさんあるとのことで、誰もが上手でした。

夜になると眠れず、あれこれと思い悩みます。何故帰れないのだ。私は日本には絶対に帰る。とにかく希望をもとう。そう決心して毎朝早く入国管理事務所に顔を出しました。事務所は七時三十分頃から開いていました。私は「家族が日本で待っている、もう返してくれませんか」「私の業務はすでに終っています」「既に不本意ながら不法滞在者です。出国させて欲しい。さもなければ滞在VISAを延長して欲しい。」と頼みました。来る日も来る日も訪ねました。何の反応もありません。何回か会っている間に、寡黙な役人もあたりを気にしながら会話をはじめました。

どうしたら帰国できるのか、誰も教えてくれません。いずれにしても不法滞在では出国できません。滞在許可を取るには、エイズの検査が必要です。保健所は山のような人だかりです。注射器は使い古しが一本トレイにのっているだけです。不法滞在を続けるべきか、リスクを冒して、血液検査を受けて、滞在許可を延ばすべきか、迷いましたが血液検査をして滞在許可を申請、出国VISAをとることに決めました。

この頃、日本政府の要人が次から次に出す談話がイラク政府の態度を硬化させ次第に日本人に対する態度が冷たくなっていくように思いました。イラクにとって日本人は友人ではない。だとすれば日本に帰ることが出来るのは、相当時間がかかるだろう。と思い始めました。 (次回(2)「日本は友好国か?」に続く)


執筆:片山 廣
アラブ イスラーム学院顧問

 

(→バックナンバー
(→週刊アラブマガジンのトップ


 
↑UP↑

前に戻る


アラブマガジンへもどる

 

アラビア語カフェ | アラブ イスラーム学院 | サイトマップ | ヘルプ



2004年 アラブ イスラーム学院