アラブとの30年
 

【アラブのもてなし】
 

私たち日本人3名の調査団が、週に2便の飛行機が発着しない地方の小さな村を訪れた時のことです。1980年代、アラブは建設ブームで、その現地調査の為の訪問でした。飛行機が目的地に到着し、降りた客は10人位でした。

ここでの最初の仕事は、村長さんを訪問して現地調査の許可をいただくことと、村役場から調査団に同行してもらう案内者を選んでもらうことでした。日本人一行の空港到着は、既に村長さんの耳に入っていました。今までこの地を訪れた日本人は無く、またその日本人がアラビア語を話すという噂はいち早く村人に広がり、大勢の村人が村長さんの家に集まっていました。私たちが到着すると、村長さんは鷹揚に出迎えてくれました。「アハラン ワ サハラン(ようこそ)、遠路お疲れでしょう。さあ、ごゆっくりお休みください」「そしてその後食事をとってお帰りなさい」

鶏がコッココと鳴く声がしました。しばらくすると、直径1.5m位の大きな盆に、山盛のご飯に鶏(きっとさっきの鶏でしょう)の丸焼きを散らした料理が用意されました。ご飯は、カプサともマンサフとも呼ばれるヨーグルトで炊いたご飯(これは、結婚披露宴などの祝宴用の食事)です。私たちが隣りの部屋で休んでいる間に急いで準備をしてくれたのです。主だった村の方々と一緒に、右手をご飯に突っ込み、それを握って口に入れていきました。ご飯は熱くて手が火傷するほどでしたが、食事は美味しく、村人たちの心からのもてなしに話題も弾みました。

長老の村長さんは、話題が豊富で、日本の事も、世界の事情も良く理解していました。教養の高さも、普通のアラブ人なら誰もが持ち合わせているもの。これは、特に驚くべきことでもないのです。やがて、未だ調査の仕事は完了していないことをお伝えし、おもてなしに感謝して別れの挨拶を交わしました。総ての調査業務が終り、急ぎ空港に戻りました。しかし、残念ながら予定された飛行機が既に飛び去った後で、真っ暗闇の空港には誰もいませんでした。次の飛行機は4日後です。結局、400kmの砂漠を車で走ることにしました。

私たちは村の野外喫茶で、普段は羊を運搬するジープを持った運転手を雇いました。2時間ほど走ると運転手はハンドルを握りながら居眠りを始めました。事故を起こされても困るので、急遽車を止めて、全員仮眠を取ることにしました。いびきの凄いMさんを車の中に置き、Dさんは車の下にもぐりこみ、私は車の脇に陣取りました。満天の星の下、昼間の疲れからすぐに眠りにつきました。ところが、すぐに目を覚ましてしまったのです。身体がたがた震えるほどの寒さ・・・乾燥した砂漠型の気候は、真夏の昼は摂氏50度を越えても、夜は気温が4、5度に下がり、凍えるような寒さになってしまうのです。運転手をたたき起こし、再び道の無い砂漠を走り、ハイウェイに出ることにしました。朝日が出ると、8時頃なのにもう暑くなりました。全く夢のような一日でした。

執筆:片山 廣
アラブ イスラーム学院顧問

 

(→バックナンバー
(→週刊アラブマガジンのトップ


 
↑UP↑

前に戻る


アラブマガジンへもどる

 

アラビア語カフェ | アラブ イスラーム学院 | サイトマップ | ヘルプ



2003年 アラブ イスラーム学院