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「イスラームと女性」
〜イスラーム社会の現実〜
 

ハビーバ中田香織
「アッサラーム」第65、66号掲載

 イスラーム圏の女性の現実を取材した本が多く出版されているが、そのほとんどすべてが抑圧された不幸な女性を描いている。外国人が書いたものだけでない、その土地に生まれ育った女性自身が書いたものも同じである。例えば、有名なところでモロッコのファーティマ・メルニッシ、エジプトのナワール・サアダーウィー。彼女たちの描く女性たちの状況は悲惨で目を覆いたくなるものだ。そしてそれはおそらく事実だろう。現実のある一面を映し出しているだろう。しかし、物語を西洋的に判読しようとすると大きな誤解が生じる。メルニッシにしろ、サアダーウィーにしろ確かに現地人ではあるが、その眼差しは欧米人のそれとほとんど変わりない。「ムスリムの眼差し」ではないのである。ムスリムの眼差しを持った者から見れば、物語の主人公とそれを取り巻く人々は残念ながらイスラームから遠く離れた人々であり、彼らの不幸もそこに起因していることは歴然である。
 私はエジプトに9カ月、そしてサウディアラビアに2年暮らしたが、私の付き合った女性たちはみな信仰篤い人々だったせいか、誰も夫婦仲がよさそうだったし、こうした本に書かれた出来事を連想させるような横顔を垣間見ることはとうとうなかった。


女性解放の未来

 本当の「女性解放」とはなにか。女性が己の女性性を抑圧して「男並み」に社会に進出することが女性解放、男女の平等獲得にはつながらず、却って男性中心の価値観を擁護し自己疎外を進めるだけであることに多くの女性たちは気づいている。しかし、女性の「女性性」の価値が正しく評価され、発揮されることこそが女性解放だとして、一体なにをもって「女性性」と規定すべきか。女性の本来あるべき姿とはなにか。また、今日「女性らしさ」として理解されているものはどこまでが生得的で、どこまでが文化的か。男性優位の社会によって育まれて来た「文化」を剥ぎ取ったとき、どんな女性の「自然」が立ち現れてくるのか。

 男女の差異は生得的であると同時に、文化的なものである。女は女と生まれるばかりでなく、女に「なる」のである。男も然り。フェミニストが言うように、おそらく生得的な性徴は性的役割分担を完全に決定づけるものではないだろう。それゆえにこそ、成長の過程で女は女であることを選択し、男は男であることを選択し、それぞれが「男は辛いよ」、「女は辛いよ」と耐え、また相互に思いやりをかけていかなければならないのだろう。文化にも神の意志は働いている。神は女に「女になる」よう命じて給うているのだ。女は女となり、男は男となり、それが自己のアイデンティティーを形成する。そこには実存的不安など入り込む隙はない。そして男となった男と女となった女が対になったときそれぞれの生は最大の安定を得る。それが初めに引用したクルアーンの節『おまえたち自身からおまえたちのために同棲する妻を造り給い、おまえたちの間に情熱と同情の心を設け給うたのも彼(アッラー)の御徴のひとつである。』の言うところの「神の徴」なのだろう。

 神を見失った者の不幸は、すべてを疑問視し、すべてを否定し、そのうえですべてを創造しなければならないところにある。女性解放運動は、今日の社会システムが女性に抑圧的であることを指摘し、攻撃することはできても、それを破壊しどこに向かったらよいのか、女性の開花をどのような形で求めたらよいのかを実は知らない。彼らが想像力を最大に駆使して思い描く最も具体的な男女平等社会は、女性がその身体的、精神的女性性を犠牲にすることなく男性と共に賃金労働を担い、一方で男性も家事、育児、老人看護など家事労働に加担する社会、というところだろうか。

 イスラームでははっきりと男女の分業を説く。男は糧を得るために働き、女は家を守る。ただし、イスラームは決して近代社会の女性差別を肯定し、今日のイスラーム圏の女性の抑圧的状況を正当化するものではない。男女が分業の上に共生するイスラームの理想社会はいまだかつて存在したことはなく、最もよく実現されていたイスラームの初期時代、預言者(彼に平安あれ)存命の時代においてすらイスラーム前の男尊女卑の傾向は人々の間に根強く残っていた。しかし、たとえイスラームの提出する理想がかつて実現したことなく、依然、理想と現実との間には大きな隔たりがあるとしても、私たちには目指すべきものが確かに見えている。

 男は外で働き、女は内で働くというイスラームの原則は、すでに述べたように女性に職業を持つことを禁ずるものではなく、女性の社会参加、自己の実現を阻止するものでもない。男女の世界が分かれているからこそ一層女性には医師、教師など女性にかかわる諸分野での活躍が期待されるし、男の手前を気にすることなくイニシャチブを十分に発揮することもできる。自己の能力を発揮し、自己の可能性を追求する場はなにも収入を伴う職業に限らない。表舞台に立たなくても社会参加は可能なのである。一方、男性に外の労働が課されているといって、それは家事労働一切の免除を意味するものでもない。預言者ムハンマド(彼に平安あれ)は繕い物もされたし、掃除や炊事の手伝いもされたことがハディースに伝えられる。アラブ社会では今日でも食糧の買い出しはしばしば夫の務めである。

 長い試行錯誤を抜け、イスラームという解答に行き着いてみると、それまでの自分がいかに迷妄に捕らわれ、いかに病んでいたかがおかしいくらいによくわかる。外国人ムスリムと結婚する若い女性たちの中には喜々として「自由」を捨て、イスラームの「拘束」に身を任す者が少なくない、と初めに書いたが、イスラームの次元に身を移してから決別した次元を振り返ると、何重にも縛られているのは神の意志と戒律の中に身を置く我々ではなく、むしろ限りない欲望の虜となり、無意味な社会規範に拘束され、移り変わりの激しい情報に振り回される「彼ら」の方であることが、己の晴れ晴れした解放感と共に実感される。イスラーム入信を異次元への移行に譬えたのは、こちらと向こうではあまりに物の見え方が異なり、価値の逆転とすら言っていいようなことが起こるからだ。神のしもべであること、神のみのしもべであることを自覚したときこそ真の精神の自立、真の解放は獲得されるに違いない。














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2003年 アラブ イスラーム学院