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「イスラームと女性」
〜男女の差異と不平等〜
 

ハビーバ中田香織
「アッサラーム」第65、66号掲載

男女の差異

 今日のフェミニズムは男女の差異を最小限の生物学的差異にまで切り詰め、男のすることをすべて女もする権利を主張し、また女の領域とされてきたことがらに男が加担することを要求する。そして「男らしさ」、「女らしさ」、「男の役割」、「女の役割」という表現を拒絶する。しかし、自然をみれば明らかなように、雌と雄とは身体的に異なり、その身体的差異は自ずと役割分担に現れるものである。人間はそれぞれ気質も能力も異なり、その意味では不平等である。男女の間にも差異はあり、不平等はある。神がそのように創られているのである。

『アッラーがおまえたちのある者をある者より多く恵み給うものをうらやんではならない。男たちにはその稼ぎに応じて分け前があり、女たちにはその稼ぎに応じて分け前がある。アッラーの恵みを求めよ。まことにアッラーはあらゆることを知り給う。…男は女の擁護者である。アッラーが一方に他方より多くの恵みを与え、彼らが自分の財産から(扶養のための)経費を出すゆえに。』(第4章[婦人]32−34節)

『…女たちには彼女らが義務として負うのと同じだけよくしてもらう権利を持つが、男たちは彼女らより一段上である。まことにアッラーは威力並びなく英明にあらせられる。』(第2章[雌牛]228節)

 言うまでもないことだが、差異を認めることは優劣を付けることとは無関係である。ただ、今日の男性社会において女性が男性と同じ土俵で勝負しようとすれば、当然女性は劣った者という評価を得ることになる。そして妻、母の役割はハンディーキャップとならざるを得ない。男女の不平等解消は、女にも男並みのことができることを立証し、認めさせることによって果たせるものではなく、女には女の土俵があるのだということを男に認めさせたときにこそ果たせるのではないか。


主導権

 夫は妻に対しリーダーシップを負い、妻は夫にリーダーシップを委ねる。これは神によって定められた秩序である。人間はそれぞれ考え方が異なり、話し合っても意見が一致しないことも多々ある。「3人の者がいるときには1人がリーダーになるべきです。」(ムスリムの伝える伝承)とあるように、リーダーを定め、その者に最終決定を委ねることは事を円滑に運ぶためにとても有効なシステムである。夫と妻の間では夫がそのリーダーシップを司る。これは夫の身勝手な言い分に妻がただただ服従しなければならないという独裁体制の正当化では決してない。現実にはこれを男の都合のいいように解釈する男性ムスリムが少なくないが、ムスリムの模範である預言者ムハンマド(彼に平安あれ)は、以下の例に見るように、妻たちに対し男として、あるいは夫としての権威を振りかざし、己の意志を一方的に妻に押し付けるようなことは決してされていない。
ある時、旅の途中、妻の一人サフィーヤが乗っていたらくだが病気になり進めなくなった。そこで預言者(彼に平安あれ)は別の妻ザイナブに、彼女の持っていたらくだをサフィーヤに貸してくれるよう求められたが、彼女はそれを拒んだ。すると預言者はザイナブに強制することはされず、別の解決を求められた。妻の所有物に対する権限に干渉しようとはされなかったのだ。

 また、死の病に臥せっておられた預言者(彼に平安あれ)は、最愛の妻アーイシャの許を訪ねた日、「明日は誰の番だったか」と言って、アーイシャの家に留まりたいが構わないか、と暗に他の妻たちの許可を求められた。これは預言者が複数の妻たちの間を公平に扱うため日替わりで順番に訪ねることを習わしにされていたためだが、状況が状況であったから、明日から私はアーイシャの許に留まることにしたい、と宣告することもできたはずである。にもかかわらず彼は、妻たちの気持ちを配慮し、許しを求められたのである。
 また、ある時、預言者(彼に平安あれ)が妻アーイシャの許におられると、別の妻サウダがスープを作って持って来た。アーイシャは(おそらく2人きりの水入らずに邪魔が入ったのが気に入らなかったのだろう)、「自分がそれを飲んだらいい」と彼女に言い放ち、サウダがそれを無視すると、「飲まないなら顔につけてやる」と言ってサウダの顔にスープをなすり付けた。それを見て預言者は笑いながらサウダに、アーイシャにお返しをしてやるといい、と言い、言われた通りサウダはアーイシャの顔に同じようにスープをなすり付け、それを見た預言者はさらに笑われた、というエピソードが伝えられる。妻たちが嫉妬から小さな争いをするのを目にしながら、夫の権限でそれを上から押さえ付けるようなことはされず、むしろ明るくその場の緊張を解しておられる。

 「…あなたがたのうち最良のものは家族(妻)に最良の者です。」(アッ=ティルミズィーの伝える伝承)という言葉が伝えられるが、実際、預言者は妻たちに優しく接せられ、妻たちは、神の使徒であり、夫である彼の傍らで萎縮するどころか実に伸び伸びと生活し、意見の主張もはっきりし、時には喧嘩することすらあった。

 夫がイニシャチブを取り、妻がそれに従うという「役割分担」は、夫の有利を不平等に図ったものではない。双方にとって有利な秩序である。人間が異なれば、個性も異なり、意見も異なる。そんなときには主導権を持った方の意見に譲るという法則があると、よけいな揉め事は回避出来る。意地の張り合いからつまらない意見の相違にこだわり、無意味な言い争いとなり、互いに不愉快な思いをし、意地が意地を呼んで仲直りのタイミングを逸する、という事態を避けられる。それに実際譲ってみれば、どうでもいいことが実に多いのだ。妻が譲れば夫はそれを感謝し、妻に優しくし、妻の言い分も聞こうとするだろう。どちらが強くどちらが弱いか、どちらが優れどちらが劣るか、どちらが勝者でどちらが敗者かではない。双方のためのルールなのである。理由もなく相手に譲らなければならないとすれば不愉快だが、妻は夫に従い、年少者は年長者に従い、子は親に従い、市民は統治者に従う、という神の定め給うたルールに従って駒を進めるのだ、と考えれば、不思議と腹は立たない。「もし人間がアッラー以外に向かって跪拝を命じられることがあるとすれば、それは妻が夫に向かってそう命じられただろう。」(アッ=ティルミズィーの伝える伝承)という言葉も伝えられるが、妻は夫に「屈服する」のではなくアッラーに服す意味で夫に服すのある。そしてそれは、先に預言者(彼にアッラーの祝福と平安あれ)の妻たちの例を出して説明したように、夫の横暴に妻がひたすら耐える、ということを許すものではない。

 妻が夫を「主人」と人前で呼ぶことに抵抗を覚える若い妻が増えているようだが、主人−奴隷、主人−召し使い、という対比で考えるからおかしくなるのだろう。夫は「家の主な人」であるから「主人」なのである。

 イスラームにおいて女は男に義務と課された様々なことから免除されている。例えば、男には自分自身と自分の家族の生活費を稼ぐ「義務」がある。ジハードの義務がある。毎日5回の礼拝をモスクで集団で行う義務がある。毎週金曜の合同礼拝参加の義務がある。一方、生理中の女性に礼拝の義務はなく、ラマダーン月中の断食義務も解除される。女性にとって毎月一週間前後礼拝ができないことは辛く、礼拝できる喜びを改めて思い知らされるよい機会であるが、やはり同時に礼拝の時間を気にする必要がないことは楽である。ラマダーン中に断食を解かねばならないことも口惜しいことであるが、やはり息をつく一時でもある。それに比べ男性は死ぬまで一日たりとも、一回たりとも礼拝を休めるときはない。しかも礼拝毎原則的にはモスクに足を運ばなければならない。これは大変なことである。そのこと一つをとっても「男性はえらい」と素直に認められる気持ちになる。生理中の女性が礼拝や断食ができないのは一つには女性の体を思い図った措置だろうが、このように謙虚に「男はえらい」と思わせるという効果を狙ったものなのかもしれない。いずれにせよ、アッラーの英知は私たちには計り知れないほど深い。

 男と女の気質の違いが先天的なものであることは、男女の子供を育てたことのある母親にとっては自明のことである。例外はいくらでもあるが、大抵の場合、男の子の方が活動量は多く、動くものに興味を示すのに対し、女の子は赤やピンクを好み、ままごとを好む。本来「平等」とは、様々な違いを踏まえた上にこそ成り立つものであり、なにもかもを同じにしてしまうことではない。男女の差異を尊重し評価し合ってこそ男女間の平等はなるのである。そもそも、己がアッラーのしもべであり、己の財産も能力もすべて神からの預かり物であると知るムスリムは、人より何かが勝っているからといって得意然とし他人を見下すということはなく、むしろ人より多くを与えられた者の義務を重く自負するのである。夫が妻よりも力において勝ることに乗じて妻を虐げるということは決してあってはならないことである。

 イスラームでは女性が国家の頂点に立つことはできない。預言者(彼にアッラーの祝福と平安あれ)は、ペルシャで王女が女王の座に着いたことを耳にし、「女性を統治者とする民は決して栄えないだろう。」(アル=ブハーリーの伝える伝承)と言われたと伝えられる。これを女性差別と言いたければ言えばいい。ここで問題となっているのは女性の能力の問題よりも、むしろリーダーシップを女性に委ねざるを得ない男たちの無能力への非難であろう。第一、女性が統治者になれないことがそれほど大きな損失だろうか。きれいごとだけではやっていけない面倒な政など男に任せ、そのすきにもっと有益なことを能率よくやったほうがいいように思えるが、そうした考えがフェミニストには許せないのだろうか。














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2003年 アラブ イスラーム学院