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第8章
【ザイナブ・ビント・ジャハシ―その2】
 

神命の婚姻

 もともと気のすすまぬまま、神(アッラー)とその使徒の命令であるがために、意にそわぬ結婚をしたこの若い婦人を、使徒はあわれに思うのであった。もしできることなら彼女の受けた痛手をいやしたいと願うのであった。彼女を妻に迎えたい。しかしどうしてそのようなことができるだろうか。ザイドは自分の息子であるとクライシュの人びとに宣言したではないか。息子の妻だった女と結婚しては人びとは何と言うであろう。養子は実の息子ではないと言ったとて、そんな道理が彼らに通じるであろうか。彼らの伝統では養子と養父は実の父子と同じ関係にあり、息子としての権利も、また禁ずべき戒律も同等とされている。

 マダルの良家からひき離し、父でない人を父とする男と気のすすまない結婚をさせた従妹(いとこ)に対して、ムハンマドは自分の感情を押えて、自分の心の願いを表わすまいと努力したのであった。

 信徒の母、アーイシャと話をしているうちに、啓示を受けて突然気を失った状態に陥ったムハンマドは、正気に戻ると明るい顔でこう言った。「誰かザイナブのところへ行って神(アッラー)が私と彼女を結ばせた喜びの知らせを伝えてくれるか」そして彼に下された神(アッラー)の啓示を読みあげた。「神(アッラー)の祝福を受け、また汝が可愛がったあの者(ザイド)に“妻をとどめおき、神(アッラー)を畏れよ”と言ったときのこと。そのとき汝は神(アッラー)が暴露しようとされた汝の胸に秘めた気持を人びとが口の端にかけるのを恐れていた。汝は神(アッラー)を恐れるのが本当であった。それでザイドが彼女について必要なことを済ませたとき、われは汝を彼女と結婚させた。よって、これからは信徒は、必要な離婚の手続きを完了したときには、自分の養子の妻だった女でも妻としてもよいのである。神(アッラー)の命じ給うことは実行しなければならぬ」……クルアーン第33章(アルアハザーブ)37節。

 アーイシャはこう言った。「彼女の美しさを耳にしたときから気がかりだったのに、なんと、神(アッラー)が、彼女を使徒様と結婚させたという最高の栄誉が与えられたのですもの、私はもう居ても立ってもいられぬほどに心配だったのです。そして“きっと彼女はそのことを私たちに鼻にかけるでしょう”と言ったのです」

 ザイドはつぎのようなクルアーンの一節(アーヤ)が下されるまで、ザイド・イブン・ムハンマドと呼ばれていた。「汝らの養子は汝らの実子になるわけではない。これは汝らの口で言う言葉のあやであろう。神(アッラー)は真実を語り給い、正しい道に導き給う。養子は、その実父の性によって名を呼ぶがよい。それが神(アッラー)のもとでは正しいのだ。もし、その子の父の姓を知らぬなら、その子は信仰における汝らの兄弟であり、また友であるとするがよい。汝らが呼名について誤ることがあってもそれは罪ではない。しかし、心に意図ある場合は別である。まことに神(アッラー)は寛大で慈悲深い御方である」……クルアーン第33章(アルアハザーブ)4?5節。そしてその日からザイド・イブン・ハーリサと呼ばれるようになったのである。

 これがザイナブの話である。以上は問題なく信頼できるイスラームの古い本に書かれているのである。私には、ハイカル氏(注3)が西欧の学者や、宣教者たちの作り話に対抗しようとして「彼らは空想を働かせて彼女の話を恋愛小説につくり変えた」と言って、それを否定したことが解せないのである。ハイカル氏はこう言っている。

 この話はつぎのようなことを考えあわせれば根本からくつがえされるはずである。すなわち―このザイナブ・ビント・ジャハシは、預言者の従妹(いとこ)である。彼女は、預言者の目の前で育っていったのである。彼女がそのように魅力的か否かは、ザイドと結婚する前から知っていたはずである。ムハンマドは、彼女が這っていたほんの幼い頃から、また少女へ、そして大人へと成長していく過程を見てきたのである。そしてなお、彼自身が自分のマウラーであるザイドと婚約させたのである―以上のことを考慮すればあなたの目の前からもこんな作り話は消えていくであろう。ザイドの家に寄ったとき、ザイドがそこにおらず、彼はザイナブを見てその美しさにひかれ、“心うばわれる者よ”とつぶやいたという話や、あるいはザイドの家の戸口をあけると風のいたずらでザイナブの部屋のカーテンが吹きあげられ、薄着のままの彼女が見えたという話、まるでマダム・リカミヤの話ように、そして彼女にひきつけられたあまり、突如、彼はサウダを、アーイシャを、ハフサを、ザイナブ・ビント・マフズーム(?)を、ウンムサラマを、またハディージャをも忘れ去ったなどとおいうことはまったく作り話である!

 ハイカル氏の見解では、「使徒のザイナブとの結婚は、恋愛や感情がからまったものではなく、あくまでも彼は養子縁組に拘束されている権利等で無効となったものに対して神(アッラー)の規定を明確にしたかったからで、古くからの習わしに反するその件で、彼は人びとがとやかく言うであろうことを心配していたのだが、神(アッラー)は、神(アッラー)が明らかにされたことを彼が胸のうちに隠しているのを好まれなかった。人びとを恐れるべきではなく、神(アッラー)こそ真に畏れるにたる御方だからである」ハイカル博士はこう加えている。「西欧の東洋学者や宣教者たちが繰り返し語ったこの話が、その後に何らかの影響を残しているであろうか。宣教活動に熱心なあまり、あるいは近代的科学的知識という名を吹き込もうとして、あるいは十字軍以来ずっと西洋人のなかに根をはっていたイスラームに対する昔からの敵対感情そのものが、この物語にあるようなことを書き綴らせたのである。それがまた預言者の結婚に関して、彼のこのザイナブとの結婚に関して、彼らの歴史をみる目をあやまらせてしまい、預言者を侮辱するような根拠のとぼしい話題を求めさせているのである」

 実際この話の起りはけっして恋愛小説でも、また息子の妻だった女を娶(めと)ったと言われるのを恐れてムハンマドがこの結婚を避けたことを印しているクルアーンの一節(アーヤ)でもないのであるが、イスラームの古い本には、風の吹き上げた毛のカーテンのことが、またザイドの家を立ち去る際に、「神(アッラー)に讃えあれ、心奪われることよ」と口にした預言者のことが記述されているのである。これは、世界史に十字軍が登場して来るずっとその前に、しかもイスラームの預言者に何の敵意も持つはずのない、イスラームをあなどる意志など毛頭ないイスラーム史家や伝記家の筆によって書かれたことなのである。

 一体そこになにか不都合なことでもあったのであろうか? われわれの預言者について、聖典クルアーンには、“食べものを食べ、市場を歩く人間である”と印されてある。英雄史の中でさえ、預言者たちの伝説は別として、ムハンマド・イブン・アブドッラーのごとく、その人間性を強調されている人物を捜すことはむずかしい。また、イスラームの聖典のようにその使徒が遣わされた人間であることを信仰の要の一つとする聖典は他にはあるまい。われわれ誰ひとりとして信徒でありながら、この人間性を否定したり、つぎのように印されている使徒を人間から切り離して聖化させたりする者はあるまい。「言え、私はあなた方と同じ人間なのである」……クルアーン第18章(アルカハフ)110節。「言え、神(アッラー)に讃えあれ! 私は遣わされたひとりの人間にすぎないではないか」……クルアーン第17章(アルイスラー)93節。 そしてまた“カディードを食べるクライシュの女の息子”であると強調されているではないか。人間預言者が、ザイナブのような人を見て、心打たれることがあってはおかしいと言うのであろうか。また彼のように気高い気性と、深い良心を持つ人が、心を奪われるような人に会ったときに、その人から顔をそむけて神(アッラー)を讃えることより以上の、一体何を彼に求めるのであろうか。離婚の許可を求めてやって来たザイドに対して、妻をとどめて神(アッラー)を畏れよと諭す以上に、人間預言者がどんな方法をとればよかったのであろうか。この物語は、敵意を持たない人びとの伝える話からとったものであり、まことにわれわれの預言者によって、感情と理念とを人間のできうる限りまでの高みに到達させた話であり、これは、ムハンマドとイスラームとを真に誇れる価値ある物語である。われわれの預言者は、自分の心を自分の思いのままに動かすことができるなどとは言わなかったし、一度たりとも自分が人間の感情に左右されない聖人であるなどとは言ったことはない。かつて、神(アッラー)が公平にするよう命じた妻たちのうちでも、とくにアーイシャばかりを寵愛したことについて、彼はこう言ったことがある。「誓って、これが私の持てる(私にできる)公平さなのです。あなた(神(アッラー))が所有し、私には所有できないもの(注4)で私をとがめないで下さい」

 困難な立場に置かれ、悩み苦しんでいる従妹(いとこ)のザイナブに心をひかれたとて、そしてその感情を押さえながら、このようにして結ばれている夫婦の苦悶を察しながらも、夫に彼女をとどめるよう命じたからとて、どうして彼がとがめらるのであろう?

 9百年も前に、ザマフシャリーがこう書いている。……使徒はザイドと結婚させたのちにザイナブを見て心ひかれてこう言った。「おお神(アッラー)に讃えあれ、何と心奪われることよ!」それ以前に、彼の心が彼女に傾いたことなどなかったといえる。もし彼女を恋しく思っていたとしたら結婚を申し込んでいたであろうから。もしあなたが、「一体彼は何を心のなかに隠していたのだろう」と言うのであれば、「それは彼の心のなかにかかっていた彼女のこと、またザイドが彼女と別れることを願っていると言われること」と私は答える。あなたが「神(アッラー)はどうして彼がそれを恥として隠したからといって彼をとがめたのであろう。なぜ愛したこと、そのこと自体をとがめなかったのだろう。そしてなぜ自分の欲望を絶ち、心がザイナブにひかれないようにせよと命じなかったのであろう。また、なぜ預言者が恥として気にかけたり、とやかく言われたりしないように、彼を守ってくれなかったのであろうか」と問うのであれば、私は「人には隠すこともいろいろある。それが自分に許されたことであり、とやかく言われる筋合のないことであっても、他人に知られたくない場合もある。人間の心のなかに芽生える愛欲の感情は、理性のなかでも、宗教のなかでも、みにくいものとされるべきではないと思う。それは人間の行為ではないし、そこに自分の意志による選択は存在しないからである」と答える……。

 西欧の学者たち、宣教者たちがこのような解釈をしていたのであるなら、十字軍以後の偽りの作り事だと言って彼らを責めるわけにもいくまい。むしろ、「彼らはアルアハザーフ章の一節(アーヤ)を解釈したイスラームの古典からこの物語をとったのであろうが、イスラーム法の根本である養子問題の全体から離れて部分のみをとりあげてしまった」と言うべきであろう。

 ここで規定の一節(アーヤ)を読んでみよう。「信徒の男も女も、神(アッラー)とその使徒が、事を決められた以上自分勝手に事を処理すべきではない。神(アッラー)とその使徒にそむく者は、明らかに迷いそれた者である。神(アッラー)の祝福を受け、また汝が可愛がったあの者に、“妻をとどめ置き、神(アッラー)を畏れよ”と言ったときのこと。そのとき汝は神(アッラー)が暴露しようとされた汝の胸に秘めた気持を、人びとが口の端にかけるのを恐れていた。汝は神(アッラー)を恐れるのが本当であった。それでザイドが彼女について必要なことを済ませたとき、われは汝を彼女と結婚させた。よって、これからは信徒は、必要な離婚の手続きを完了したときには、自分の養子の妻だった女でも妻として差し支えない。神(アッラー)の命じ給うことは実行しなければならぬ。預言者が神(アッラー)の命じ給うことを行なうに何もとがめはない。以前の昔の人たちに対しても、神(アッラー)はこのようにしてこられた。神(アッラー)の神命は動かせぬ定めである。神(アッラー)のお告げを伝える者たちは、神(アッラー)をのみ畏れ、神(アッラー)以外の何者をも恐れない。まことに、神(アッラー)は、万全なる清算者なのである。ムハンマドは汝らの誰の父親でもない。彼は神(アッラー)の使徒であり、また預言者たちの最後の者である。まことに神(アッラー)は全てを知り給う御方であられる」……クルアーン第33章(アルアハザーブ)36?40節。

(注3) ムハンマド・フセイン・ハイカル、エジプトの著名な近代文学者である。
(注4) ここでは異性に対する愛と感情を示す。

転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳

(2007年9月7日更新)














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