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第7章
【ウンムサラマ―その3】
 

啓示

 神(アッラー)の啓示は、いつもアーイシャの家にいるときに下されたので、アーイシャはそれを他の夫人たちに誇っていたのだが、ウンムサラマが嫁いで来てついに預言者が彼女の家にいたときに啓示が下されたのである。

「他のある者たちは自分から過(あやまち)を認めた。正しい行いと、悪い行いが混っていたのだ。おそらく主(アッラー)は彼らの改悛を許し給う。まことにアッラーは寛大なる慈悲者であられる」……クルアーン第9章(アッタウバ)102節。

 この啓示が降された原因は、次の事件であると言われている。

 ヒジュラ暦5年のクライザ部族との戦いで、ムスリム軍が彼らをすっかり包囲してしまったため、おびえあがった彼らは、アブールバーバ(注7)を自分たちのところに送って指示を与えてくれるようにと預言者に頼んだのである。そこで、預言者がアブールバーバをクライザ部落へ送った。アブールバーバを見るや、クライザの人々は駆け寄って来た。女や子供たちは彼にすがりついて泣き出したので、それを見たアブールバーバは彼らをあわれに感じた。そして彼らは「アブールバーバよ、ムハンマドの指示は決まったのですか」と聞いた。アブールバーバは「このとおり死刑だ!」と言って首に手をやってみせたが、彼はその場に足をすくませたまますぐに自分自身が神(アッラー)とその使徒にそむいたことを知った(注8)

 その場を飛び出し、みずから進んでマスジドの柱に身をゆわえつけるとアブールバーバは「私のやったことを神(アッラー)が許して下さるまでここを動かない」と言った。

 なかなか戻ってこない彼を、心配して待っていた預言者のところへその知らせが届いた。預言者は「私のところへ来たのなら私は許したのだが、彼がやったことはやはり神(アッラー)の許しがあるまで、その場に残しておくより仕方ない」と言った。

 イブン・ヒシャームが伝えるところによると、……アブールバーバは柱につながれて6晩過ごした。礼拝の時間になると、彼の妻がやって来て彼を解き礼拝をすませるとまた戻って柱に縛られるのだった。ついに使徒のもとにアブールバーバへの許しの啓示が降された。それは使徒がウンムサラマの家にいたときで、夜あけ前の時間であった。ウンムサラマは使徒が声をたてて笑う様子にこう言った。
「何を笑っていらっしゃるのですか。神(アッラー)がいつもこのようにあなたを笑わせてくださいますように」

 彼が「アブールバーバが許されたのだ」と答えると、彼女はすぐに「ではこの喜びを彼に知らせましょうか」と言った。「もしよかったら、そうしてほしい」と彼が言った。そこで彼女は部屋の戸口に立って、
「アブールバーバよ、喜びなさい。神(アッラー)があなたを許されたのです!」と呼びかけた。

 そこで人々は、彼を柱から解こうとやって来た。しかし、彼はそれを拒んでこう言った。
「神(アッラー)に誓って、神(アッラー)の使徒が御自分の手で私を解いてくださるまでいやです」そこで朝の祈りに出かけた使徒が彼のところに来てその縄を解いた……と言う。

 ヒジュラ暦6年であった。ウンムサラマは夫ムハンマドに同行して、マッカへの旅に立った。これはクライシュがムハンマドの入都を拒否した曰く付きの旅で、このとき(注9)フダイビーヤの協定が結ばれたのである。この協定こそ、後のイスラームに決定的な勝利をもたらしたものといえるのだが(当時はそうは思われなかった)、このフダイビーヤの出来事に、ウンムサラマは大きな役割を果たしている。

 それは、この協定が行なわれたことを知ると、教友たちはこの協定は勝利の道をばく進し続けるムスリムにとって、その権利を不当に低めるものだとして強い不満をもった。つぎのようなオマルの行動からみてもその不満の大きさを知るに十分であろう。

 オマル・イブン・アルハッターブは、そんな停戦の条件(注10)をのんで協定が結ばれたと知るやいなや、ただちにアブーバクルのもとに駆けつけた。「彼は神(アッラー)の使徒ではないか」「我々はムスリムではないか」「彼らは多神教徒ではないか」アブーバクルはただ「然り……」と答えるだけであった。

 オマルは「ではなぜ我々のイスラームがこんな不名誉を受けねばならないのか」と抗議した。アブーバクルは彼に注意を喚起してこう言った。「私は、彼が神(アッラー)の使徒であると信じている」オマルは言った。「私も彼が神(アッラー)の使徒であると信じている」

 オマルは、それから使徒のもとへやって来た。そしてアブーバクルに問いかけたことを問うのであった。「なぜ我々のイスラームがこんな不名誉を受けるのか」という質問までくると、神(アッラー)の使徒はこう言った。「私は神(アッラー)のしもべ、使徒である。私は神(アッラー)の命じられたことにそむかず、神(アッラー)は私を見離されないだろう」

 しかし、ことは危機をはらむほど大きくなっていた。使徒が教友たちに犠牲(注11)を捧げて髪を切るようにと命じたときも、誰ひとりそれに応じる者はいなかった。三度も同じことを命じたのであるが、誰も従おうとしない。そこで妻のウンムサラマに人びとの態度を訴えると、彼女はこう言った。
「使徒様よ、あなたは御自身もそうしていたいのですか。あなたは出かけて誰にも声をかけずに、ご自分の犠牲を捧げ、ご自分の髪を切ってもらってはいかがですか」

 ムハンマドは、妻の助言に従って表に出た。誰にも声をかけずに犠牲を捧げ散髪をすませた。

 そこで預言者がそうするのを見た人々は、犠牲を捧げ、またお互いの髪を切り、後悔し合うのだった。たけり狂っていた感情がおさまって理性が戻ると、信徒たちは預言者がこの協定を結んだことの正しさを知った。実際以前にはこれほど大きくイスラームへの門戸が開かれたことはなかったろう。フダイビーヤの協定の後にはぞくぞくと入信する人々があらわれたのである。

 ウンムサラマはハイバルの戦いのときも、マッカのファトフの際にも、またターイフでの戦いやハワージン・サキーフ連合部族との戦い(注12)のときも使徒に同行している。

 ヒジュラ暦8年にマディーナに戻ったとき、預言者の夫人たちはマーリヤに対する騒ぎを起して彼女の気持をも掻きたてた。そして彼女もすぐに第一のライバルであったアーイシャにこたえて、マーリヤへの抗議に加わった。

 そしてこの騒ぎが、ムハンマドに彼女たちとの1か月にも渡る別居生活を余儀なくさせたのである。

 その嵐が去ったあとの預言者の家は静かであった。そしてついに預言者ムハンマドが病いにたおれると、ウンムサラマも、また他の夫人たちも、夫が最も愛した妻アーイシャのもとで看護を受けられるようにと協力したのである。

(注7) 当時、彼らと同盟を結んでいたムスリムの友人であった。
(注8) 理由は明らかではないが、無条件降伏を勧めなかったためであるらしい。
(注9) 628年。
(注10) 協定では……その年にはムスリムたちはマッカに入らず退却すること、そして翌年に3日間のみ、巡礼のためマッカへの入都が許されること。その際は刀以外の武器は所持してはならないこと。また、保護者の同意なくムハンマドのもとにやって来たマッカの人々はマッカに送り返すこと、しかしマッカに来たイスラーム教徒はムハンマドのもとに送り返す必要がない。また、10年間は相互に戦いを行なわない……等がとり決められた。
(注11) 巡礼の際に、イスラーム教徒は頭髪を切り、動物を犠牲に捧げる慣わしがある。
(注12) これらは630年の出来事である。

転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳

(2007年8月17日更新)














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