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第7章
【ウンムサラマ−その1】
 

誉れ高き佳人−その1

 預言者の家のウンム・アルマサーキーンの住いがあいてから、しばらくしてウンムサラマ夫人が嫁いで来てそこを占めた。

 イブン・サアドのタバカートが伝えるなかで、彼女はこう言っている。「使徒様は私を妻とされ、ウンム・アルマサーキーンのザイナブ・ビント・ホザイマのいた家に移しました」

 彼女の実名はヒンド・ビント・アブーウマイヤ・イブン・アルムギーラで、マブスーム一族の出身である。

 ムハンマドは、ヒジュラ暦4年のシャッワール月(第10月)に、彼女と結婚したとアッタバリーが伝えている。この結婚は預言者の家庭にひと騒ぎ起すことになった。二人の若い妻、アーイシャとハフサにこのうえない不安定を与えたのである。もっともこの二人がこの結婚に無関心でいられるわけがなかった。この新しい夫人は、名門の出でしかも美人で、誇り高く、知性豊かな女性で、評判が高く、それだからこそ預言者の家に嫁いできた人なのである。

 彼女の父親もクライシュのなかでは指折りの人物の一人で、ザード・アッラキブ(旅人の食糧を運ぶ人)という通称で知られていた。それは彼と旅に出る人は食糧を持参する必要がなかったからで、いつも彼の食糧で旅人を十分まかなうほど彼は気前がよかった。

 母親はアーティカ・ビント・アーミルで名誉あるフィラース家の出身であり、そして祖父のジャズィーマ・イブン・アルカマはジャズル・アッティアーヌ(刀の強い人)という呼び名で有名であった。このウンムサラマ夫人もまた未亡人となった人で、亡夫はアブーサラマと呼ばれているアブドッラー・イブン・アブドルアサドであった。この人は二度のヒジュラを体験した教友のひとりで、預言者にとっては従兄弟(いとこ)にあたり(注1)、また預言者の乳兄弟でもあった。預言者とアブーサラマの二人をサウィーバというアブドルオッザー・イブン・アブドルムッタリブ(注2)の女中が育てたことがあったからである。

 アブーサラマ(アブドッラー)もウンムサラマ(ヒンド)も、この由緒ある家柄に加えてイスラームにおいて栄光の過去を持つ人であった。二人は初期からの信徒であり、ともにハバシャに逃れて、そこで長子サラマが生れている。

 その後マッカに戻ったが、そこでは依然ムスリムへの迫害が厳しかったので、再びマッカをたち、マディーナへの移住を決意して、家族ともども旅立つことにした。このときのこの一家の旅立ちの話は後世に悲劇の物語として伝えられているように、困難つづきのものであった。

 ウンムサラマは、そのときの辛かった出来事をつぎのように語っている。

「夫アブーサラマは、一頭のラクダを用意し、私と息子を乗せるとそのラクダをひいてマディーナに向かって出発したのですが、私の実家のアルムギーラ家の人々がそれを見て、夫に立ちふさがってこう言ったのです。“あなたが出かけることは勝手だが、彼女を巻添えにはしないでくれ、この人は我々の身内だ。今日はあっち、明日はこっちと無宿者のようにあなたと歩きまわることなど、どうして見逃せようか”そして、夫の手からラクダの手綱をひったくると、私を連れて行ってしまったのです。すると激怒した夫の身内のアブドルアサド家の人々が、息子のサラマのところにやって来てこう言うのです。“あなた方が彼女を我々の身内から離すのなら、我々の子供を彼女のもとに残すわけにはいかない”そして、抜けてしまうのではないかと思われるほど子供の腕をひっぱって、連れ去ってしまったのです。そしてアルムギーラ家の人々に捕まえられて、私はそこにとどまらざるを得ませんでした。そして夫のアブーサラマは、マディーナに向かったので、私と、夫と、息子の間は散り散りに分けられてしまったのです。私は、1年余りというもの毎朝外に出て砂漠にしゃがんで泣き明かしていました。あるとき、アルムギーラ家の親戚の一人が、私の前を通ったときに、私に同情してアルムギーラの人々にこう言って諭してくれました。“このあわれな人を離してあげたらどうですか。あなた方は、この人と夫と子供の間を裂いているのですよ”そこで“行きたければ夫のところへ行きなさい”と言って彼らは私を離してくれました。そのとき、アブドルアサド家の人びとも息子を返してくれました。

 私はラクダに乗ると息子を膝の上に乗せ、マディーナにいる夫を求めて出発しました。誰も連れのない不安な旅でした。

 マッカから2ファルサハ(注3)ほど離れたタンイームまで来たとき、オスマーン・イブン・タラハに出逢ったのです。彼が“アブーウマイヤの娘さんではないですか。どこへ行くのですか”と声をかけたので“マディーナの夫のもとへ行きたいのです”と答えました。すると“誰もお供はいないのですか”

 私は“この息子だけです”と言うと、彼は“それでは私が連れていってあげましょう”と言ってくれたのです。そしてラクダの手綱をとると、私たちを連れて出発したのです。

 本当に彼のように親切なアラブ人と旅をしたのは初めてでした。休息地に着くと、彼は私を降ろし、自分は木陰に離れて横になりました。出発の時が来ると彼は私のラクダを連れてきて、背に鞍を置くと私が気がねなく乗れるよう私から遠ざかり、“お乗りなさい”と言い、私がきちんとラクダに乗ったのを見届けると手綱をとりに来て、つぎの休息地まで歩きつづけました。マディーナに着くまでそうでした。クバーのオマル・イブン・アウフ一族の村が見えたとき、(そこにアブーサラマの住いがあった)オスマーンは“あなたの夫はこの村にいます。さあお行きなさい。神(アッラー)の祝福がありますように!”とう言って再びマッカに戻って行きました」

 ウンムサラマはムハージルーンとして、マディーナの地を踏んだ最初の女性であった。同じように、ハバシャに移住した最初のムスリマでもあった。夫のアブーサラマ(すなわちアブドッラー・イブン・アブドルアサド)もまた最初にヤスリブに移った教友の一人であった。

 マディーナでは、彼女はもっぱら子供たち(注4)の育児に専念し、夫は聖戦にいそしんで、家をあけることが多かった。

 ヒジュラ暦2年のジュマーダールウーラー月(第5月)に、使徒がウシャイラの戦いに遠征したとき(この戦いではムドリジュ族と、その同盟部族のダムラ族が味方した)、このとき、使徒は、教友の中から、アブーサラマを選んで、マディーナの最高責任者として任命した。

 彼は使徒とともにバドルの戦いで活躍した314人の勇士の一人でもあった。このバドルの役は、314人のムスリム軍が、3倍の数を誇る多神教徒の軍を相手どった戦いで、多神教徒と一神教徒の最初の、しかも決定的な合戦であった。

 その後のウフドの戦いで不利に転じたムスリム軍に、欲望を抱いた人びとが出て、その2か月後には預言者はもう一つの戦いを迎えねばならなかった。それは、アサド族がマディーナの預言者を襲おうと煽動を始めたからであった。

 そこで預言者はアブーサラマを呼び、至急、軍を編成させ、150人の兵を彼に預けた。そのなかにはアブーウバイダ・イブン・アルジャラーハと、サアド・イブン・アブーワッカースもいた。

 騎上の勇者アブーサラマは、使徒の命令に従って兵を挙げた。敵軍に気づかれぬよう、まだ夜の明けきらない早朝に攻撃をかけ、戦いの足並みが揃わぬ敵を襲い、大打撃を与えて、勝利の戦いを展開した。この凱旋軍がマディーナに戻ると、ウフドの戦いで消沈していたムスリム軍の士気は、再び燃え上がったのである。

 この戦いで、アブーサラマは陣頭に立って指揮をとり活躍していたものの、彼にはウフドの際に受けた大きな傷が残っていた。表面上では、傷口がふさがり直ったように見えていたが、これはかなりの深傷であった。アサド族との合戦の間に、この傷は悪化をたどり致命傷となってしまった。

 死の床に伏したアブーサラマを見舞った預言者は、息をひきとるまでそのそばで、ひたすら祈り続けていた。やがて、心をこめたその手で彼のまぶたを閉じると、タクビール(注5)を9回唱えた。

 人びとは、「神(アッラー)の使徒はタクビールの回数を忘れたのであろうか」と不思議がったが、ムハンマドは、「忘れたわけではない。たとえ千回タクビールを唱えてもアブーサラマはそれに値する」と言ったという。

 そしてアブーサラマは、二度のヒジュラ経歴を持つ未亡人、ウンムサラマ(ヒンド・ビント・ザード・アッラキブ)をあとに残したのだった。

(注1) 預言者のおば、バッラ・ビント・アブドルムッタリブの息子である。
(注2) すなわちアブーラハブである。実名をアブドルオッザーといった。
(注3) ファルサハは昔のペルシャの距離単位で約5キロメートルといわれている。
(注4) ウンムサラマとアブーサラマの間には少なくとも三人の子供たち(サラマ、オマル、ザイナブ)がいた。アッタバリーによると、その外にバッラ(ドッラ)という娘がいた。
(注5) アッラーフ・アクバル!(神は偉大なりの意)の御題目。ふつう葬式の礼拝では四回唱える。

転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳

(2007年8月3日更新)














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