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第6章
【ザイナブ・ビント・ホザイマ】
 

 ハフサが預言者の家にやって来てまもなく、4番目の夫人が嫁いできた。彼女もたまウフドの戦死者の未亡人であった。名はザイナブ・ビント・ホザイマである。

 彼女が預言者のもとで暮した期間は、短かったようである。多くの歴史家や伝記家たちは彼女のことを書き洩らしているし、現在私たちが彼女に関して知り得ることは、断片的な資料による話であり、それもそれぞれくい違っている話が多い。

 歴史家たちが、ザイナブ・ビント・ホザイマについて伝えていることは、彼女はヒラール家の出身で、夫はウフドの戦いで戦死を遂げた勇者であったということと、預言者が彼女を妻に迎えてからまもなく死んでしまったということだけである。

 彼女を残した夫の名前についてはこれもまちまちに言われている。

 アブドッラー・イブン・ジャハシ(預言者の従兄弟(いとこ)で、もう一人の妻ザイナブの兄にあたる人)であったとも、またアットファイル・イブン・アルハーリスであったともいわれている。イブン・ハジャルや、イブン・アブドルバッルは「アットファイルの死後、彼の兄弟にあたるオバイダ・イブン・アルハーリスが彼女を娶(めと)った」とつけ加えている。それ以外の文献で、「彼女は預言者に嫁ぐ前は、オバイダ・イブン・アルハーリスの妻であって、その前にはジャハム・イブン・アムルのもとにいたのである。このジャハムは預言者の従兄弟(いとこ)にあたる」と伝えている話もある。

 夫の戦死した時期についても、いろいろくい違っている。

 アルイサーバでは「夫はアブドッラー・イブン・ジャハシであり、ウフドの戦役の勇者であった」となっているが、イブン・アルカルビーの伝えるところによると、「彼女は、アットファイル・イブン・アルハーリスの妻であったが、離婚された後、その兄弟が彼女を迎えたが、その夫はバドルの戦いで戦死した。そして預言者が彼女と婚約をした」となっている。

 アッタバリーの歴史書にはこう書かれている。「この年(ヒジュラ暦4年)のラマダーン月(第9月)に、使徒はヒラール家のザイナブ・ビント・ホザイマと結婚した。彼女はその前には、アットファイル・イブン・アルハーリスのもとにいたが、彼はすでに彼女と離婚していた」

 3番目の相違は、誰が使徒に彼女との結婚を勧めたかという点である。イブン・アルカルビーが伝えるには、「使徒が、直接彼女に結婚を申し入れた。彼女は使徒に一切をまかせて結婚した」のである。

 イブン・ヒシャームによると、「彼女のおじであるカビーサ・イブン・アムルが結婚させた。そのとき、使徒は4百ディルハムのサダークを支払った」となっている。

 4番目には、預言者の家で過ごした期間もまちまちである。

 アルイサーバでは、「使徒が彼女と結婚したのは、ハフサ・ビント・オマルを迎えた後で、彼女は2、3か月も過ぎないうちに死んだ」

 イブン・アルカルビーの伝える話では、「使徒はヒジュラ暦3年のラマダーン月(第9月)に彼女と結婚したが、彼女は彼のもとで8か月を過ごしたのみでヒジュラ暦4年のラビーウッサーニー月(第4月)に死んだ」

 イブン・アルイマード・アルハンバリーが伝えるところによると、「その年(ヒジュラ暦3年)預言者は、ウンム・アルマサーキーン(貧しい人々の母)と呼ばれるザイナブ・ビント・ホザイマと結婚した。彼女は結婚後、3か月で死んだ」

 彼女に関するこの相違を、昔の人が記した以上に追及しようとする人もいなかった。ただハイカル氏が「彼女はバドルの戦いで死んだオバイダ・イブン・アルムッタリブの妻であった人で、その後1年か2年のうちに神(アッラー)に召された。彼女はハディージャについでただ一人夫よりも前に召された妻であった」と断定している。

 ボドレーは、「ムハンマドがハフサを迎えてまもなく続いて、もう一つの結婚が行なわれたが、これは何といっても形ばかりの結婚であった。花嫁はバドルの戦いでたおれたムハンマドの従兄弟(いとこ)オバイダ・イブン・アルハーリスの未亡人で、その名前はザイナブ・ビント・ホザイマである。ムハンマドが彼女を迎えたのは、その境遇をあわれと思ったからであり、アーイシャもハフサも彼女には特に何の気も使っていない。彼女は結婚後8か月で死んだ」と述べている。

 他の人びとは、多かれ少かれ、このザイナブのことに関しては何も触れていない。

 このザイナブ・ビント・ホザイマについて、歴史家や伝記家たちはそれぞれこのようにくい違った話を残しているのであるが、そのだれ一人意見を異にすることなく一致している点がある。それは、彼女が貧しい人々に思いやりを寄せた、恵み深い婦人であったということである。どの本にも彼女がウンム・アルマサーキーン(貧しい人々の母)という名で呼ばれていたことが記されている。

 イブン・ヒシャームが言うには、「彼女は貧しい人びとへの愛と慈悲に生きた婦人で、ウンム・アルマサーキーンと呼ばれていた」

 またアルイサーバには、「彼女はウンム・アルマサーキーンと言われていた。それは、彼女がよく貧しい人びとに、食物や施しを与えていたからである」とある。

 同じようなことがアッタバリーにも、シャズラート・アッザハブにも、書かれている。

 ボドレーは、「彼女は、優しい親切な婦人であった」と言い、また、ハイカルは、「彼女は美人ではなかったが、彼女の人柄の優しさは、ウンム・アルマサーキーンと呼ばれるほどであった」と述べている。

 ここで私は、ムハンマド・アルマダニー氏の執筆された論文(リサーラ誌の203号1965年3月4日付)のなかの誤りを指摘する必要があると思う。そこで氏はこう書いている。

 「ザイナブ・ビント・ジャハシは預言者の夫人たちの中でも、孤児や貧しい人々に対する行為が最も立派であった。そして彼女はウンム・アルマサーキーンという呼び名で知られていた」

 ムハンマド・アルマダニー氏が、どこからこの名をザイナブ・ビント・ジャハシに与えたのか、私にはわからない。使徒伝でも、タバカートの書でも、また初期のイスラーム史の文献でも、すべて、ウンム・アルマサーキーンの名をザイナブ・ビント・ホザイマに与えているのである。

 アルワーキディーの言葉をイブン・ハジャルがアルイサーバの中で伝えているように、彼女はおよそ30歳のとき死んだらしい。それは人びとが「青春を終えた年」と言っている年齢である。30になる婦人を、青春を終えた年というのならアーイシャの結婚した当時の幼さを、あれこれと語り草にする人びとにもそう言って反論して差しつかえないのではと思われる(注1)。

 これ以上伝記(使徒伝)や訳本の中に、ザイナブが夫ムハンマドの家で暮した時期の資料を求めようとしても、重要なことは何もみられない。

 ここでは私たちは、預言者と結ばれて信徒の母という栄誉を授けられた幸せな夫人、女性たちのあれこれ思い悩むこと(注2)から遠ざかり、ひたすら貧しい人びとのために生きた夫人、欲もなく嫉妬も起さず、ひっそりと夫ムハンマドに尽した夫人として彼女をしのぶことにしよう。

 ほんのわずかな日々を過ごして、やさしい幻のように消えていってしまった夫人であった。彼女は平和に生きたように平和に死んでいった。イスラーム史の上に「信徒の母」そして「貧しい人びとの母」という誉れある名を残して……。

(注1) すなわち、30歳が年寄りなら、アーイシャの年は青春であり、結婚しても不思議ではなかったという意味である。
(注2) おしゃれの問題や夫の愛をめぐる競争などのことを指しているのであろう。

転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳

(2007年7月27日更新)














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