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第4章
【アーイシャ・ビント・アブーバクル-その4】
 

ヒジュラ-その2

 二日目が過ぎた。ムハンマドとその友を追って、クライシュ族の一団が捜索に出たという新しい知らせがはいった。

 夜になって、こっそりと食糧を運んできたアスマーが帰って来ると、彼女は、追手がその洞窟までやって来て、足を踏み入れようとしたが、そのまま降りて行ってしまったこと、それは蜘蛛の巣が、洞窟の入口をふさいで、中にいる二人を守ったからであったこと、また追手がまさに洞窟に踏み込まんとしていたときの、その足音をすぐそばで耳にしたときの父のハラハラした話を聞かせた。

「もし、一歩でも足を踏み入れていたら、我々は見つかっていた……」とアブーバクルが言うと、ムハンマドは「二人だけだと思ってはいけない。神(アッラー)が我々とともにおられる」と言った、……と。

 三日目の夜が来た。アーイシャは気が気でなく、時のたちゆくのをひたすら待っていた。姉の帰る道を見つめながら……。

 姉の帰りはいつもより遅かった。闇の中をアスマーの姿をみとめようと、彼女は神経を昂ぶらせていた。じっと耳を傾けて、どんな物音をも聞き逃すまいとしていた。夜の風がその足音を遠くから伝えてくれるのではないかと……。

 夜は更けていった。気がかりでそこに立ちつくしたまま、彼女はあれこれと思いをめぐらせていた。すると息をはずませ、足音を乱してついにアスマーが走って帰って来た。

 その正常でない様子を見て、アーイシャは心配のあまり、その場に立ちすくんでしまった。アスマーの腰帯が破れて、半分ちぎれていたからである。

 気を失わんばかりのアーイシャを、あわれに思ったアスマーは、とりあえず、二人が無事に洞窟から出発したことを告げると、一息ついてから、つぎのように今宵の出来事をアーイシャに話し始めた。

 歴史に輝かしい1ページを加えたこの夜、道案内役のアブドッラー・イブン・ウライキトが、二頭のラクダを連れてやって来た。アブーバクルが、何日か前に預けておいたラクダである。そしてもう一頭、自分のラクダを洞窟の入口に止めた。使徒とその友は、表に出た。

 アスマーは、二人の食糧を入れたふろしき包みを持ってきたが、それを縛りつける紐(ひも)を忘れた。いよいよ出発となったので、包みを持たせたいと思ったが、それをラクダに結びつける皮紐はどこにもなかった。そこで自分の腰帯をほどき二本に裂くとその一本で包みを縛りつけ、残りの半分を帯に巻いた。

 アブーバクルは、二頭のラクダを念入りに調べ、良いほうを選ぶと、ムハンマドに近寄せ、「さあお乗りください」と勧めた。ついで、アブーバクルももう一頭のラクダに乗った。そしてその後に下男のアーミル・イブン・フハイラを乗せた。

 マッカの南方、道とも言えぬ道を旅人たちは急いで消えて行った。アスマーは、その後姿が見えなくなるまでじっとみつめた。そして追手の目に注意を払いながら一人、父の家に帰って来たのであった。

 アーイシャは、ぼんやりとして、あたりのことなど何も目にはいらぬようであった。身体だけがそこに残って、心は二人の後を追いかけて行った。そのとき、激しく戸口をたたく音がした。

 アーイシャは動くこともできず、立ちすくんだ。ザート・アッニターカイニ(注7)(二本帯の女)は、その夜の訪問者の応対に出た。するとそこにはアブージャフル・イブン・ヒシャームを含むクライシュ族の数人が立ちかまえ、彼女にきつく質問をあびせた。
「アブーバクルはどこに行った?」

「父はどこにいるのかわかりません」と彼女は答えた。

 それは嘘ではなかった。父と預言者が洞窟を出て砂漠のどこか知らない道へ消えて行ったときが、彼女の見た二人の最後であった。どこへどう駆けて行くのか彼女にはわからなかった。

 何の手がかりも得られないと知ると、アブージャフルは手を上げて、彼女の耳飾りがふき飛んだほど頬を強くひと打ちすると、連中とまわりをおどしながら帰って行った。

 それから何日も、何晩も過ぎた。マッカではクライシュ族が、跡を追うにも何の手がかりもないので、すでに安全な場所にかくまわれて、自分たちの手が届かなくなっているのではないかと恐れ始めていた。

 ムハンマドとその友は救われた。

 いろいろな噂が流れていたが、ついにヤスリブからつぎのような知らせが届いたのである。

 アンサール(注8)は、朝の祈りの後には、いつも町の郊外に預言者の到着を待ちわびて迎えに出ては、太陽が頂点に昇り影がすっかりなくなるまでそこで待っていた(注9)

 ある日、いつものように待っていたが、日影がなくなったので、人びとは家に入り休んでいた。すると、そこの物見台にいたユダヤ人の男が叫ぶ声を聞いた。

「カイラ(注10)の人びとよ、あなた方の幸運の待ち人がやって来ましたよ」

 そこで人びとは、ムハンマドを迎えようと、急いで飛び出してきた。

 そのとき、ムハンマドは、アブーバクルとともに木陰に休んでいた。二人とも同じくらいの年齢であったうえ、多くの人びとは以前に預言者を見たこともなかったので、歓迎に出迎えたが、さてどちらが彼らの預言者であるかアブーバクルなのかわからなかった。やがて影がそのうちの一人の頭上から移ると、他の一人が立ち上がって自分の衣で日陰をつくってやるのが見えたので、どちらが彼らの預言者であるかがわかったのである。

 その知らせは、ヤスリブのすみずみまで伝わり、あちらこちらから歓声が上がった。その偉大なムハージルを見ようと駆け集まってきた群衆で道はいっぱいにふさがり、歓迎の歌声が、ヤスリブの空に響き渡った。

 アーイシャは恋人の居場所を知った。同じようにそれを知ったクライシュ族は、いまやどうすることもできなくなってしまった。今度は自分たちが、さて明日は彼がどんな攻撃に出てくるのかと恐れながら待つ番となったのである。

 一人の友と、ムスリムでない案内人、そして下男を一人供に従えただけで、マッカを発(た)った旅人、そのたった一人の旅立ちによって、自分たちの勝利は不可能となり、侮辱の杯を飲まざるを得なくなったクライシュ族は打ちのめされ、萎縮してしまった。

 このヤスリブへのヒジュラは、イスラーム史の最も重要な歴史の始まりとされ、ここにヤスリブの町自身、祝された栄光の新しい時代の始まりを迎えたのである。

(注7) 二本帯の女という意味で、この出来事以来、アスマーの呼び名となった。
(注8) 援助者。すなわち預言者を受け入れたマディーナの人々のことである。
(注9) 砂漠の国では、真昼の日陰のない時間帯を外ですごすことはできない。
(注10) マディーナの二大部族であるアウスとハズラジの人々をさしている。この二部族の共通の祖先の名がカイラである。

転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳

(2007年5月11日更新)














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2007年 アラブ イスラーム学院