トップ | イスラーム研究1 | イスラーム研究2 | イスラームと女性 | 預言者の妻たち | イスラーム世界とキリスト教 | イスラームと教育

 

第4章
【アーイシャ・ビント・アブーバクル-その3】
 

ヒジュラ-その1

 ムハンマドはまだ幼い少女を、おしゃべりや遊びの楽しみから切り離したり、あるいはその小さな肩に結婚生活の重荷や責任を負わせたくなかった。アーイシャをそのまま父親の家に残し、何の苦労もなく友達と遊ばせておいた。

 彼が彼女から得た恵みは、アブーバクルの家に寄るたびに、彼のそばに走り寄ってくる彼女の愛らしさが、彼を待ち受けている幾多の苦難の問題や、自宅にいるときにも彼を襲う孤独感と、異郷感を忘れさせてくれることであった。

 孤独感—家ではサウダが彼の子供たちの世話をしてくれているのに、異郷感—マッカにいて、しかもここは先祖代々住み慣れた故郷であるのに、この感情はなぜか絶えず彼を襲ってくるのだ。そんな感情に耐えきれなくなると、いつも友人のアブーバクルの家に行き、小さな婚約者を相手に楽しいひとときを過ごすのであった。彼女の機知にあふれた聡明な朗らかさに、深い愛情を傾けるのが彼の慰みであった。

 また、アーイシャにとっても、偉大で崇高で威厳ある神(アッラー)の使徒が、彼女のもとにくつろいで楽しそうにひとときを過ごしては、彼女の素朴な愛らしさにひきつけられているのをうれしく思った。

 また使徒が、アブーバクルの家を訪れるときは、早朝か夕方にきまっており、けっしてそれ以外の時間になることがなかったのも、アーイシャを喜ばしていることの一つであった。

 ムスリムへの圧迫は、すでに頂点に達する激しさで、信徒たちはマッカからヤスリブへとのがれて行った。当時使徒とともにマッカに残っていたものは、アブーバクルとアリー・イブン・アブーターリブとを除けば、あとは監禁されている者か、裏切りを余儀なくされた者たちだけであった。そんなある日のことであった。正午の陽は高く、酷暑の真昼であった。大地は焼けるような熱で静まりかえって、人びとは暑さをのがれてみな家にひきこもり、けだるいような静寂さの中であった。アーイシャは、家の中庭で子供らしく強い日ざしにもめげず遊んでいた。

 アーイシャは突然戸口に近寄ってくる足音を感じた。じっと耳を傾けると、それが愛する婚約者の足音であると悟って、彼女は急いで戸口に走り寄り、待ちきれぬ様子で戸をあけた。

 人びとの避けるこの暑いさなか、家の前に使徒の姿を見とめたとき、アブーバクルは、その場に立ちすくむ思いであった。「こんな時間に、神(アッラー)の使徒がみえるとはよっぽどの重要事が起ったに違いない」

 預言者が入ってくると、アブーバクルは彼に座を譲った。使徒はそこに腰をかけると重大な何かの出来事に、気を張りつめている様子であった。アーイシャも、姉のアスマーも緊張してこの様子を見守っていた。

 使徒は部屋にいる人びとには目もくれず、アブーバクルに、「ここから人を出してください」と言った。

 アブーバクルは「使徒よ、ここにいるのは私の二人の娘です」と答え、それから心配そうに、「どうなさったのですか」と聞いた。

 使徒の「ついにヒジュラ(注3)の許しが下ったのです」という答えにアブーバクルは、「同行します! 使徒よ、同行します!」と叫んだ。

 以前、アブーバクルは何度もヒジュラを願ったが、「あせらないでくれ、おそらく神(アッラー)は、あなたに連れとなるよう命じられるであろう」とムハンマドに止められていた。

 アーイシャと、アスマーの聞いているところで、二人の友人はクライシュ族の怒りについて話していた。アカバの誓いの後、ムハンマドへの協力者が、クライシュ族以外から現れたのだが、自分たちの国以外のところに協力者がでて、しかもムハージルーン(注4)として逃れて行った信徒たちが、そこに落ち着き保護を受けているのを知ったクライシュ族は、ムハンマドもまたそこへ出発するのではないかと注意し始めた。いよいよ自分たちと戦う準備を始めたと思ったのだ。

 そこで集会所に集まって、ムハンマドの件をどうするか相談することにした。この集会所というのは、クサイイ・イブン・キラーブの館で、クライシュ族の人々はここで部族の重要事を話し合ったり決議を行なうことにしていた。そのとき集まった人々の名は、オトバ・イブン・ラビーアとシャイバの兄弟、アブースフヤーン・イブン・ハルブ、トアイマ・イブン・アディユ、ジュバイル・イブン・ムトイム、アッナドル・イブン・アルハーリス、ザムア・イブン・アルアスワド、アブールハカム・イブン・ヒシャーム(すなわちアブージャフル・イブン・ヒシャーム)、ハキーム・イブン・ホザーム、ウマイヤ・イブン・ハラフ等で、その他クライシュ族に属さない人々も参加していた。

 いろいろな案が出たが、結局最終的に、アブージャフル・イブン・ヒシャームの意見をとりあげることになった。それは各氏族から屈強の青年を一人ずつ選び出し、おのおのに鋭利な剣を与えてムハンマドを襲わせ、全員が一打、切りつけて、彼を打ち殺す。そうすれば血の復讐(注5)は全氏族に分散して返り、ムハンマドの属するアブドマナーフ一族も、クライシュの全氏族を相手どっていどむことはできまい。代償金の支払いだけで済むわけである。

 そこで神(アッラー)は、ヒジュラの許可を使徒に下したのであった。連れにはアブーバクルが選ばれた。

 アーイシャは別れが辛く、気がかりであった。愛する預言者を見つめ、また、愛する父を見あげると、彼は喜びに涙を流していた。父の今日のその様子を見るまで、幼い彼女は、人はうれしさのあまりにも涙することがあるのだということは知らなかった。

 急な旅立ちの準備が始まった。アブーバクルはアブドッラー・イブン・ウライキトを呼びにやった。この男は、砂漠の道に通じた案内の達人であった。アブーバクルは、そのときのために二頭のラクダを彼に渡しておいた。

 ムハンマドは、従弟(いとこ)のアリーを呼び、この重大な決意を打ち明けると、彼にマッカに留まって、自分の去ったあと、人々から預かっていた物の返還などの面倒をみるようにと頼んだ。

 いよいよ出発のときが来ると、ムハンマドは、アブーバクル家の高台に立ってカアバに視線を投げかけ、またマッカの街をながめて悲痛な声でこう言った。
「あなたは私の最も愛する地、あなたは神(アッラー)の最も愛される地、もしあなたの民が私を追い出したりしなければ、決して私はここを離れなかったのに……」

 そしてアーイシャをかえりみて、別れの微笑を浮かべようとつとめたが、アーイシャは突然に訪れたこの別離に、自分が正気でいるのか、夢の中の出来事なのかわからないありさまであった。

 アブーバクル家の裏口から二人の友は抜け出した。アブーバクルは5千ディルハム(注6)の大金を持って出たが、これは彼と、彼の家族に残された全財産であった。二人はアリーと、残されたアブーバクルの家族以外には、マッカの誰にも気づかれぬよう出発したのであった。

 二人の旅人は、マッカの南、サウル山によく知った洞窟があったので、まずそこに向かって行った。家に残ったアーイシャは、一人気をもんでいた。

 一方、アーイシャの兄のアブドッラーは、街に出て行き、人びとの話に耳をそばだてた。姉のアスマーは陽が沈んでから、こっそりと洞窟に運ぶ食糧の用意をした。

 アブドッラーからの話では、アーイシャは、多神教徒たちが預言者の旅立ちを感じとり、居場所をつきとめるか、あるいは連れ戻した者のために、百頭のラクダを与えるという条件を出したと聞いた。

 アーイシャは、もし、神(アッラー)とその使徒への深い信仰に支えられていなかったら、絶望のあまり、自分が発狂してしまわんばかりであったろう。しかも、彼女は兄が下男のアーミル・イブン・フハイラに、マッカの民の牧童たちとまじって、共有放牧地で、日中、羊の群に草をやり、夕刻になったらアブーバクルの羊の群を洞窟の前まで連れて行くようにと言っているのを聞いていた!

 アーイシャは一日中、ただ時のたつのを数えて過ごしていた。時はゆっくりと、まるで何年もの年月が過ぎて行くかのようであった。彼女は耳を澄まして、新しい知らせを待っていた。

 夕方になると、姉のアスマーは外出の準備を始めた。アーイシャは愛する二人の旅人へ、くれぐれもよろしくと伝えてくれるよう頼むのであった。そしてアスマーの帰りを待ちわびながら、じっとその帰り道を見つめては気をもんでいた。

 洞窟から帰ってきたアスマーに飛びつくと、アーイシャは、愛する人と父を見てきたその目に、握手をかわしてきたその手に、二人の声を聞いたその耳に口づけを浴びせかけるのであった。そして姉を坐らせると、二人の様子を詳細に尋ねた。

 アスマーは洞窟が苦痛な居場所であること、また、使徒が家族とも別れ、この狭い洞窟で、苦痛をじっと我慢している姿をみて悲しんだアブーバクルが言ったことばを話して聞かせた。
「たとえ私が殺されても、私は一人の男にすぎないが、もしあなたが殺されたら、民はほろびてしまう」……と。

 預言者からは恐れと不安は去って、こう答えた。
「悲しむことはない。神(アッラー)は我々とともにおられる」……と。

 アーイシャは何度も何度も繰り返し、姉に話をねだった。

 やがて疲れきって眠りに落ちると、彼女の心は愛する人の隠れ住む洞窟のあたりを駆けめぐるのであった。

(注3) 移住。ここでは622年に行なわれたムハンマドのマッカからヤスリブへの聖遷のことである。この出来事を記念してこの年を元年とするヒジュラ暦(イスラーム暦)が始まった。
(注4) ヒジュラ(移住)を行なったイスラーム教徒。その単数形をムハージル、複数形をムハージルーンという。
(注5) アラブの習慣であった。ある者が他の氏族の者を殺害した場合には、殺された氏族の者は殺した氏族の者に対し、同等の復讐をする権利をもった。
(注6) ディルハムは当時の通貨。

転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳

(2007年5月2日更新)














日本語トップ | リンクについて | サイトマップ | ヘルプ



2007年 アラブ イスラーム学院